「もうすぐバレンタインだな。お前ら、日頃の感謝を表わせよな」
社会人1年目の2月のある日、職場の店長が突然言った。さらに続ける。
「もちろん手作りで」
その言葉に絶句した。世間ではセクハラやパワハラが問題視され、「職場のバレンタインチョコ問題」もよくTVで取り上げられていた。
女性スタッフに向けられた「もちろん手作りで」に頭を悩ませた
当時勤めていたのは、都内に数店舗展開する飲食店。料理をするのが好きで入社を決めた。
配属されたのは客席が30席にも満たない小さな店舗で、スタッフは7人。そのうち女性スタッフはわたしと先輩の2人。先程の発言は、わたし達2人に向けられたものだ。
「手作り……」
お菓子作りは好きだ。
大学生の時は一人暮らしのアパートに、小さいながら「自分専用のキッチン」を手に入れ、時間を見つけてはお菓子作りに励んだ。
お菓子作りは準備段階からワクワクがいっぱいだ。
「何を作ろう」「何を入れよう」「アレンジしてみようか」「今日は少し高級な材料を使ってみよう」
脳内会議は大盛り上がりだ。
しかし、社会人になってからそんな時間の余裕なんてなかった。
勤務時間は14時から終電までと週3回ほどランチタイムの出勤。ランチの出勤がない日は上司や先輩に始発まで続く飲み会に連行されたり、朝4時集合でゴルフに連れて行かれた。本当なら出勤時間ギリギリまで寝て、エネルギーを蓄えたいのに。
さらに、先の発言をした店長は日頃からパワハラが酷かった。
何かミスをすれば殴る蹴るの暴行、説教は終電が過ぎても続き、午前3時過ぎに自腹でタクシーを使って帰宅することもザラだった。
そんな職場だったから、入社してからの10ヶ月間で辞めていく先輩を何人も見送った。社内で相談しようと思っても、外面はいい店長。社長には気に入られているらしく、返り討ちが怖くて店舗内の先輩と愚痴を言い合うくらいが関の山。
ギリギリまで寝ていたいのに。2月14日朝にスーパーへ駆け込む
わたし達に手作りお菓子を持って行く以外の選択肢はなかった。店長の言ったことは絶対命令なのだ。先輩は生チョコ、私はパウンドケーキを作っていくことにした。
パウンドケーキなら、混ぜて焼くだけだし、1個作れば男性スタッフ5人分、十分に間に合うだろう。ちなみに先輩はバレンタイン当日は休みなのに、「冷蔵庫に入れておけばいいから」とわざわざ当日に持ってくることを命じられていた。
2月13日、いや終電で帰宅して、もう2月14日のAM1時。コンビニで材料を見繕おうと思ったが、卵もバターも高いし薄力粉は売ってない。家に帰り、冷蔵庫の中身を確認して絶望した。
わかっていたことだけど、冷蔵庫の中には水と納豆しかない。
「起きてからスーパーに行くしかないか……」
ギリギリまで寝てたいのに……。
朝9時、徒歩10分のスーパーに駆け込む。レシピは、より手軽にできそうなものを検索した。せっかく作るのにケチを付けられるのも嫌だから、少しでも凝って見えるようにココアのマーブルケーキを選んだ。
タイムリミットは出勤時間のPM1時。自分の身じたくも考えると12時までには完成させたい。とりあえず、金額を確認しながら材料をカゴにポイポイと放り込む。
好きでもなければ、感謝の気持ちすらも湧かない上司に渡すものなんて最低限の金額で済ませたい。わたしの給料は上司の半分にも満たない。労力を強制的に吸い取られるなら、材料費くらい惜しんだってバチは当たらないはずだ。
わたしは10分でスーパーを出た。
ワクワクしながら焼き上がりを待つ時間も、この日ばかりは憂鬱
家に帰ってすぐにスーパーで買ったものをキッチンに広げる。材料を混ぜて、型に流し込んで焼くだけ。大学生の時に作ったどのお菓子よりも簡単なはずなのに、このあと男性スタッフに評価されると思うと作るのが億劫だ。
混ぜて流し込んだ生地をオーブンに入れて少しすると、家中に甘い香りが立ち込めた。いつもならワクワクしながらオーブンを覗き覗き完成を待つこの時間も、「こんな時間があるなら寝たい」と願いながらシャワーを浴びたり、化粧をしたりと身じたくの時間に当てた。
そうこうしている間に、オーブンが「ピーピー」と焼き上がりを知らせる。少し冷まして適当なタッパーに入れる。ラッピングなんてしない。せめてもの抵抗だ。
わたしの作ったパウンドケーキの評価は、高評価とはいかないものの、「意外とできるじゃん」だった。
天の上から見下ろしているかのような発言にイラっとはしたが、それはいつものこと。もう慣れた。問題はホワイトデーだ。
男性スタッフの1人(先輩)が彼女と作ったというクッキーを持ってきた。わたしと先輩は「いいなぁ。わたしも彼氏とお菓子作りとかしたいなぁ」と言いながらクッキーをボリボリ食べた。その横で上司が「お前、男のくせに菓子作りなんてするの?きもっ」と言い放った。さっきから誰よりもパクパク食べてるくせに。
さすがに他の男性スタッフもドン引きの空気。全員黙った。
さらに彼は何も持ってこなかった。買ってすらこなかった。あんたこそパワハラに耐えてる私たちに感謝の意を表せよ!!
数ヶ月後、この偏見まみれのパワハラ店長は私たちによって退社の危機に追い込まれる。
あぁ、あのホワイトデーの時にケーキの1つでも買ってくれば、わたし達の気持ちも少しは変わっていたかもしれないのに。あぁ残念。