両親は毎日ジャージの教師。スーツとヒールのOLに憧れた
「就活の軸は何ですか?」
「はい、他人の生死に間違っても関わらないことです」
「あとは稼げることかな。稼げたら内容なんてどうでもいい」
こんな本音をひた隠しにして、5年程前に就活をして、無事に誰もが知る老舗メーカーに就職した。
世界中の誰もが知る有名ブランドにします!と笑顔で答えて面接は突破した。
両親が英語と体育教師の私は、毎日ジャージで出かける両親を見て育った。
英語教諭の母がどうしてジャージで通勤していたのは謎だが、部活も持っていたし、お転婆くんや、ヤンキーちゃんだらけの地域だったから好都合だったのかもしれない。
ジャージ通勤をする両親を見て育った私が、お仕事ドラマを見て、都会のビル群の中をかっこいいスーツを着て、ヒールをコツコツさせながら歩くOLに憧れたのは当たり前のことだった。
苦しむ父とその職場を恨んだ未熟なセブンティーン
毎日毎日遅くまで他所の子供と向き合って、売り物を盗ってしまった生徒を夜通し追いかけるような父は、生徒の1人を亡くした時に自分を責め、そのまま辞職してしまった。
そうして、当時高校2年の私は「家計の問題で私立大に行かせられない、浪人もさせられない」勧告を受けたのである。娘として、苦しむ父を見ることが辛く、そんな思いをさせた父の職場を恨んだ。
同時に、まだまだ未熟なセブンティーンだったわたしは、その発言を教育者のそれとは思えず憤り、どうしても許せなかったのである。
そんな「必殺仕事人」を両親に持つ私は、文字通り彼らを「反面教師」として、仕事は稼ぐための道具、として向きあうつもりだった。
デパコスを買ったり、海外旅行に行ったり、気になるブランド服を購入したり、もし子供ができたら「どんな大学に行ってもいい」と言ってあげたり。
ザ・ゆとり世代の私に転機が訪れてしまったのは1年前。「直営ECサイト立ち上げるから、あなた担当ね」と上司のお告げがあったのである。
出来が良い若手なんてことはなく、暇そうな小娘がいるな、なんて感じの大抜擢だった。
大仕事を任され、病院で点滴まで打った。これでは父と同じでは?
立ち上げ時、右も左も分からず気付けば体重が3キロ落ちた。サイトオープン間際までエラーは止まらず、連日の残業が響き、サイトオープン当日、無事にオープンを確認した2時間後にはストレス性胃腸炎で脱水症状が出て、病院で点滴に繋がれていた。
ベッドの中で「これじゃ必殺仕事人パパと変わらないじゃない??」なんて不満だった。
でも、同時に認めたくない、ふわふわした温度のある気持ちもそこにはあった。
たぶん、達成感。
サイトは立ち上がったから終わり、なんてことはなく、開発費用をペイするための、高い高い予算との戦いが始まった。
やったこともない広告運用や、サイトコンテンツPVの制作は辛くて、本当に魅力的だった。努力が数字に繋がる感触はモルヒネみたいな中毒性があり、忙しいと誰よりも文句を言いながらも、どんどんのめりこんでいた。
全く興味のなかった優秀セールス賞を取った時、目を背けてた自分の中の仕事熱を評価されたみたいで、涙が溢れてた。
仕事から距離を置こう、両親と同じことはしない、と必死に苦しんだ私は、結局仕事が好きなのである。
本心を認めるのに随分遠回りしたし、今もこれからも「必殺仕事人」として仕事一筋になるのはごめんだ。でも今は、自分の中にある熱意のままに教師人生を突き進む父に、「かっこいい、私たち家族のためにありがとう」と素直に伝えてみたい。
長い長い親子のわだかまりを溶かしてくれた「仕事」に、わたしは今では感謝してる。