「ひとり」と聞いて、「一人」と「独り」のどちらを思い浮かべるだろうか。それはきっと、その人の「今置かれている環境」によって違うのだと思う。

ちなみに私は今、「一人」を楽しんでいる。どういうことかというと、私は最近会社を辞めてライターとして、家で一人パソコンと向き合う生活をしている。そして、それを心の底から楽しんでいる。

毎日通勤ラッシュにもまれ、「いつか会社をやめること」だけをモチベーションに仕事をしていたあの日々から、薄々気づいてはいた。私が社会という場所で価値を生み出すためには、もっと自分と対話できる環境が必要だと。

もめごとが嫌いな平和主義者。自分の考えを主張する体力は無駄だ

物心ついたころから私はもめごとが嫌いで、平和主義者として生きてきた。極力争いごとには巻き込まれないよう、そういう気配のある人からは自然と距離をおいていた。
それでも気の強い友人同士で何か起きてしまったときは、どちらに加勢するでもなく、仲裁者として間に入った。

それゆえ私は、周りの大人から「けんかや言い合いをしなくてえらい。優等生だね」と言われた思い出が多い。当時は子どもながらに、自分はみんなより大人なんだ、という何とも言えない自信や優越感にひたっていたのを覚えている。
自分の主張を通すために体力を使うのなんて無駄だ、とあたかもそれが自分の正義かのように貫いていた。
しかし、社会に出てみると、その正義が私を苦しめた。

主張しても期待した反応はなく。気づくと「イエスマン」を目指すように

社員が何千といる会社では、様々なバックグラウンドや考え方を持った人がおり、みなが自分の意見を交換し合う。その多様性やぶつかりあいが、革新的なアイデアや創造の源となる。みんながみんなイエスマンでは、何の進歩もない会社に成り下がるだろう。

もちろん入社したての私たち新入社員も、会議や相談の場では自分なりの思いや考えの主張を求められた。
私も苦手ではあったが、一人前の給料をもらっているのだから、何かしらの価値を提供せねばという責任感や使命感を強く持ち、自分なりの考えを先輩や上司に伝えるよう努めた。

だが、何かがおかしかった。期待した反応は一向に返ってこなかったのだ。
決まって言われたことは、「まあ、とりあえず前やったとおりでいいじゃない」。
それもそうである。入社して数年の若者が言うことなど、未熟で実現性の低いものばかりだろう。過去の偉大な先輩が作りあげた企画にかないっこない。
でも、それじゃ受け入れられないと知りながら体力をつかって主張する意味はなんだ?

そう考え始めた私は、気づいたら「優秀なイエスマン」を目指すようになっていた。とにかく言われたことは必死でくみとり、反論もせず遂行する。周囲の同僚たちがぶつかっていても、私はそれを静観する。

決して褒められたものとは思わないが、上司や先輩は私を「不平不満も言わずに真面目に仕事に取り組む優等生」と評価してくれていた。それはそれで、一つの私の味なのかな、と初めのうちは思っていた。
が、それもつかの間だった。

私だって言いたいことや思いがあるが、人の多い環境はストレスだった

なんか、息苦しい。いつも通り仕事をしていたある日、そう思った。
その時ようやく気付いたのである。私だって言いたいことや思いはある、でも人が多いこの環境で自分を主張することは、私にはストレスが大きすぎる、と。

だから今こうして、一人でじっくり調べ物をして、考えて、発信するという仕事が楽しくて仕方がない。
一人では決して、今までのような大きな仕事はできないし、毎月の安定した給料もない。叱ってくれる人も、褒めてくれる人だっていない。けれど、働き方にストレスを感じなくなった今、次々とやりたいことや自分の意志があふれ出てくるようになった。

もちろん、これからも社会で価値を提供するため色々な人との関わりを大切にしていきたい。そのうえで、自分で作った目標に向かって走り、達成できなければまた考えて成長する、そのプロセスを楽しみたいと思っている。

幸いなことに、毎晩一緒にテレビを見てくだらない話ができる夫がそばにいてくれるので、生活の中で「独り」を感じることもない。
大切な人や自分の幸せのため、「一人」の時間をパワーに変えて、今後も未来へ突き進んでいきたい。