ひとりの時間を「自分と向き合う時間」として楽しんでいる

私はひとりで過ごすことが得意で、好んで単独行動をとるタイプである。協調性がないと言われてしまえばそれまでだが、旅行も外食もひとりで行くことに一切の抵抗がない。
ひとりと言えば『孤独』であると思われがちだが、私はひとり時間を『自分と向き合う時間』として楽しんでいる。私の場合、向き合うというのは何をしてもいいし、何もしなくてもよくて、自分の本心でやりたいと思うことをするのに時間を使うことなのだ。
自宅で読書をして一日過ごすのもいいし料理をしてもいい、宅配ピザを注文して映画を見たり、公園まで散歩に行くのもいい。ただ一つ、参加者が自分だけという条件つきだ。

自粛期間中に小説を書いてみようと思った。十代の頃は小説に近いものを書いてみたことはあったが、どれも完結出来ずに行き詰まって諦めてしまっていた。
自分には向いていないと決めつけ諦めていたにも関わらず、偶然見つけた広告の募集要項を読んで、その旅館が主催する短編小説大賞に応募してみたくなったのだ。
とくに厳しい規定もなくテーマ以外はほとんど自由だったので、書いている間はとても楽しかった。それに執筆作業というものはひとりにうってつけだと思った。

この歳になって初めて、文章を書くことが好きだと気付いた

若いうちに不可能だと諦めていたことが、年月を重ねることで可能になることもある。思考を整理するために紙に書き出したり、登場人物の心情を考えることで誰かと対話しているような体験が出来た。何人もの心情をひとりで考えるので孤独だと感じることがなく、ついには完結させることが出来たのだ。

書いた物語は運良く入賞することが出来て、私はより一層、ひとりの時間に没頭する楽しさを味わった。学生時代まで勉強は不得意でむしろ嫌いな方であったが、この歳になって初めて文章を書くことが好きだと気が付いたのだ。
それもひとり時間がなくては知ることのなかった自分の一部である。

自分の中の新たな可能性や知られざる才能というものは、自己と向き合った人が見つけやすいのだろう。それが実を結ぶかはわからないが、何かのきっかけになるかもしれない。
こうして何かに気付くためだけではなく、他にも良い作用がある。

他人を気遣うということは、少なからず自己を削ることだと思った

単独行動を好むからといって、知人や友人と過ごすことが嫌いなわけではない。むしろ好きで、友人たちにも恵まれていると思う。
だけど周囲の人たちには自己犠牲的な人が多く見えた。その気遣いや配慮には尊敬と感謝の気持ちを持つのと同時に、他人を気遣うということは少なからず自己を削ることだと思った。
そういった小さな疲れの一つは、僅かでも蓄積すれば確実に負荷となるのだ。慈愛も自愛も同じ音で読めるように、いずれも自分への労りがあってこそ成立すると私は思っている。

私にとってひとりで過ごす時間とは、自分の本心に素直になれる時間だ。素直になることで気持ちに余裕も生じて、周囲へも優しくなれるのだ。ご自愛とは『人に優しくなるための余裕を作る活動』とも言えるだろう。これこそいい作用だと私は思っているのだ。
ひとりで出来ることの大半は場所を選ばないものが多い。こうして文章を書くことも気軽に始められるご自愛のひとつだ。
たまに『かがみよかがみ』と自身を見つめ直し、不足したなにかを補うご自愛をしてみてはいかがだろうか。