あの頃の私は、ひとり心を閉ざした日々を過ごしていた。
中学生になった私は、いじめが原因で学校へ行けなくなった。
「不登校」。そんな一緒くたにされるような言葉に、私は「何か」が引っかかり嫌だった。
「行かなくなった訳じゃない。行けなくさせられたのだ」と、ずっと思っていた。なのであえて、学校に「行けなくなった」と書きたい。
そして、その事で感情のコントロールが出来なくなってしまった。
「負けるなよ」と真っ直ぐ見ながら言われ、返事が出来なかった
そんな頃、一人暮らしだった母方の祖母「おばうちん」が体調を崩し始め、人の手が必要となった。
なぜ「おばうちん」と呼ぶのかというと、子供の頃、姉妹で母方の祖母からお年玉をもらった時、祖母は「おばあちゃんより」と書きたかったところ、そこには「おばうちんより」と書いてあったからだ。
その場にいた家族は和やかに笑っていた。その日から、家族は「おばうちん」そう呼ぶようになっていた。でもその時、私は頑なに呼ばなかった。ずっと距離をとるように、「おばあちゃん」と呼んでいた。
そして、明日から入院する事になっていた日の事。
それまで「おばあちゃん」とは、2人きりではあまり話したことがなかった。でも、その日は母が席を外した時に、唐突に、
「負けるなよ!」
そう目を真っ直ぐ見ながら言ってきた。
しかし、その時期の私は、冒頭でも書いたように、ひとり心を閉ざしていた。それは、家族にも。
なので、しっかりとした返事が出来なかった。
今思えば、逆に冷たい態度をとっていたと思う。
私の名前だけ思い出せない「おばあちゃん」。悲しいけど仕方のない事
「おばあちゃん」が入院してから、私は全く学校に行けていなかったので、毎日母と2人で病院に通った。
「おばあちゃん」は、日に日に弱っていった。
ある日、滅多にお見舞いに行けていなかった姉達が一緒に病院に行った。私が一緒に行っても見せないような、驚いて嬉しそうな顔をしていた。
県外の美容学校に通っていた姉が、「おばあちゃん」の髪を切ってあげていた。「おばあちゃん」は、誰が見ても分かるくらいに良い表情をしていた。
その時に、しっかりと全員の名前を言えるか「おばあちゃん」にクイズみたいな感覚で母は聞いた。見事に、私の名前だけ思い出せないでいた。みんなが、それすら楽しそうに笑っていたから、私もその場しのぎで笑った。
でも私の顔は引きつっていたかもしれない。正直、悲しかった。仕方のない事。でも、それまでの私自身の態度のせいでもあると思った。
同時に「あの日」「あの時」しっかりと、どんな感じにでも返事をすれば良かった。その後悔はずっと心の中にあった。
そして、「おばあちゃん」は人生を生き抜いた。
今「おばうちん」と素直に呼べるのは、あの日の返事のつもり
亡くなった日の朝の事は今でも良く思い出す。母が、今まで見た事のない戸惑った様子で、「起きて!『おばうちん』の病院から連絡来たから」
そう言われ、いつもならすぐに起きられない私も、母の様子でいつもと違うと感じ、すぐに病院に向かった。
亡くなるギリギリに間に合い、母が「おばあちゃん」と最後の時間を過ごしていた。
それを見ていた私は「悲しさ」と「後悔」が脳内を埋めていた。
「『おばうちん』、私はそう呼べなかったな……」
今となると、何で呼べなかったのか分からない。自分の中で色々言い訳を作っていた。私が、距離をとってしまっていただけなのに。
あれから数年経って、今は「おばうちん」と素直にそう呼べている。それは、
「負けるなよ!」
と言ってくれた事への遅めの返事のつもりで。
「『おばうちん』、ありがとう。私負けないよ!だから心配しないでね」
今もし、一瞬でも会えるのなら、そう目を見て話したい。返事をしたい。
私は時々思い出す。「あの日」の「おばうちん」の言葉を。
私、辛くても自分の人生から逃げないよ!
でもやっぱり、会いたいな。会って伝えたい。
「『おばうちん』、あの時はごめんね。大好きだよ」