数年前、マッチングアプリを通じて仲良くなった人がいた。年上の、隣の県に住む営業マン。地元は違うが、私の県の大学出身だという。
『プロフィール読んだけど、あの芸人俺も好きなんだよね!』
『お!いいですよね!ラジオも聞いてますよ~』
話題は好きなお笑い芸人へと移り、会話は一気に盛り上がった。最新回が更新されるとすぐにチェックし、電話で感想を伝え合うようになった。かなり好感触だった。

深夜に薬局に行きそびれて焦る彼。彼は適応障害だった

電話の回数を重ねたある日。
「――あ、やばい」
彼がふとこぼしたことがあった。尋ねると、今日薬局に行きそびれたという。23時を回る頃だった。
「え、体調悪いの?」
「まあ……ちょっと眠れなくって」
「……そっか。近くにあるかはわからないけど、遅くまで開いてる薬局があるはずだよ」
その日の電話はお開きとなり、翌朝無事に薬局に行けたと連絡があった。
心に「?」が浮かんだ。

電話の回数を重ねるうちに、彼と会うことになった。途中、彼は自分のことを話してくれた。
「そう言えば前に、夜遅くでもやってる薬局があるって教えてくれたじゃん?あれ本当に助かったわ。実は適応障害ってやつで、まあ、気持ちを落ち着かせる薬飲んでるんだよねー」
「ああ、そうなんだ~。よかったね、近くに開いてる薬局があって」
「……うん、本当にありがとう」

会った後もやり取りは続いた。マッチングアプリで知り合った仲だから、他の女の子とも会っていただろうけど(少なくとも私は会っていた)、こんなに趣味で深く話せる人は初めてだとお互い口にしていた。
ぽつぽつと病気のことや休職していた等話してくれたが、「適応障害」はたまにニュースで聞く程度で、あまり深く考えていなかった。ただただ、波長の合う彼ともう少しこのままでいたかった。

2度目のデート。「夜ごはん食べない?」と彼が言い、空気が変わる

2度目のデートは、車を借りて遠出することになった。
道中は前回以上に盛り上がった。くだらない冗談を言ってけらけら笑った。ふと、彼と付き合ったらこんな感じなのかな?と、決定的なものが欲しくなってしまった。ドライブは終わり、車を返した後彼がポツリと問いかけた。
「……一緒に夜ごはんまで食べない?」
そこで空気が変わった。趣のある居酒屋に入り、話題はいつの間にか「異性の好きな仕草」。確実に、スイッチが入っていた。お互い匂わせるだけ匂わせて、お店を出た。
ああ、楽しかったけど、ここまで。名残惜しいけど仕方ない。
そう思っていたが、彼は少しうるんだ瞳でこちらをじっと見た。
「まだ一緒にいたい」
「え?」
私の手を取り、こちらを見ずに足を進める彼。
いやたしかに名残惜しい。名残惜しいけど、え??
いろんなことが脳内を駆け巡った。ここでようやく、「適応障害」の文字が脳裏をよぎった。初めて、彼に対して何と言えばいいか分からなくなった。そのまま手を引かれてホテルへ入ったが、身体を許すつもりはなかった。

「付き合う?」。彼は少し言いよどみながらもその言葉を口にした

「ちょっとしたら帰るからね?」
「なんで?ここで寝ればいいじゃん」
「いやいや、コンタクトとか化粧とかあるし。ていうか、付き合ってない人とは一緒に眠れないから」
「……じゃあ、付き合う?」
彼は少し言いよどみながらもその言葉を口にした。
「遠距離恋愛はできないって言ってなかったっけ?」
「そうだけど……。でも、帰らないで。一緒じゃないと眠れない」
あんまりにもまっすぐこちらを見るから、うろたえてしまった。断るとどうなるのか分からず、恐怖と不安が押し寄せた。結局ベッドの両端でそれぞれ寝落ちし、朝を迎えた。
翌朝、目が合うと身体を寄せようとする彼。白黒ついていないまま流されるまいと、私は冷たく言い放った。
「お願いだから、期待させるようなことしないで」
内心言い過ぎたかなとハラハラしたけど、彼はそっと離れ、ぼーっとしていた。読めない表情だった。
「……私、帰るね」
「……うん、下まで送る」
無言で部屋を出て、別れ際「また連絡する」とつぶやいた彼に、少し高揚して「うん」と返した。

彼は地元に帰って連絡の頻度が減り、季節が変わる頃には自然消滅

これって曖昧な関係?付き合うの?付き合ってるつもりなの?
でもまた連絡するって言ってたし、きっと悪い方向にはならないよね。
そんなことを考えながら過ごした数日後、突然電話が来た。
「連絡できなくてごめん。実は調子が悪くなって、今地元に帰ってきたところ」
「え、急だったね!?まあ、実家でゆっくりしてね」
彼の地元は、私の住む土地から遠く離れた東の街だ。これじゃ付き合うとかの話はしばらくないか、私はその程度だった。

その後少しずつ連絡の頻度が減り、季節が変わる頃には自然消滅していた。
「まあ、ちょっとメンタル面で心配な人だったし、結果オーライじゃない?」
友人に一部始終を報告すると、彼女はあっさりと告げた。
私も、趣味仲間がいなくなったのは寂しいけど、あの夜の判断は間違っていなかった。と気持ちを切り替えた。

数年後、私は彼と同じ「適応障害」と診断され、真っ先に彼が浮かんだ

数年後、私は彼と同じ「適応障害」と診断された。病名を聞いたとき、真っ先に彼が浮かんだ。
彼から聞いていたのは、仕事の対人関係で調子を崩し、半年休職したこと、転勤という形で復職し、新しい生活を始めたこと。具体的な症状等は聞いていなかった。
似たような経験をしたから想像できるが、休職後新しい土地で仕事を再開するなんて、相当勇気のいることだ。それでも彼は会いに来てくれた。好きな芸人の話ができる貴重な人として、調子を整えて時間を作ってくれた。
しかし、彼は調子を崩し、地元に帰ることになった。なぜ、あのとき自分に原因があったかもと思えなかったのだろう。これ以上恋愛で傷つきたくないと、自分を守るのに必死だった。それも間違いではなかったのかもしれないけど、彼が背負っていたものを、話してくれた言葉を全く受け取れていなかった。もっと他の言動ができたんじゃないかと、似た経験をした今、考えてしまう。

今、もし彼に会えたなら。「ごめん」じゃ謝りきれないし、かといって「私も適応障害になったよ」もちがう気がする。
何も言えず目頭が熱くなり、でも気付いていないフリをして「最近ラジオ聞いてる?私あんまり聞けてなくって」と平静を装うだろう。私にできることはそれだけだ。