大学4年生の10月1日。友人たちの来春から働く会社での入社式の様子がインスタのストーリーにあふれていた。
着なれたリクルートスーツのまま、その日出会った未来の同僚たちと軽く飲みに行ったり、カフェでお茶をしたり……。私は次から次へと左へスワイプをしながら、大学の食堂で時間を持て余していた。

就活の最盛期はとうに過ぎたというのに、一社からも内定をもらうことができずにいた。就職センターのアドバイザーにお勧めされた自己分析マップやら、書いて一週間も経ったら解読不可能なメモが大量に書き留められたノートを眺めながら、心はやけに静かだったことを覚えている。

大学受験で全落ちしたのに、就活にも失敗。成長しない自分にがっかり

一流企業と呼ばれる会社に就職した友人、就職をしないで海外へ飛び出すことを決めた話、時間を確保するために就職浪人をする宣言。
全てが現実で起こっていることなのだが、どこか異次元の話のように聞いていた。その時の私は、みんなが「就職」を中心に動いているのが不思議と言わんばかりだった。

思えば大学受験の時もそうだった。みんなが必死に塾やら家庭教師やらで勉強をしている時に、私は大した焦りもなく、いつもと変わらないペースで勉強していた。そして希望した大学全てに落ちた。
その後、奇跡的に2次募集で引っかかったが、それまでどれだけ周りを心配させたかは記憶に新しいはずなのに、学ばないまま4年が過ぎてしまった。ため息。半年後の進路が決まっていないことよりも、成長しない自分にがっかりした6年前の初秋。

もしその時の自分に会えるのならなんて声を掛けるか……。
「大丈夫だよ。その後、就職先はちゃんと見つかるから」
違う。確かにその2ヶ月後に就職先を見つけたが、合わずに1年で辞職したし。
「意味のないことなんてない。その過去があっての今なんだから」
うーん。よく聞く言葉だし、その通りだとは思うが、あの過去が必要だったかと言われると果たしてそうなのかと首を傾げてしまう。

過去の自分はその時のベストを尽くしていて、その過程に意味がある

心底性格の悪い奴な気もするが、そもそも過去に戻ってとか、あの時の自分に一言なんて意味のないことだと思ってしまうのが本音。それは物理的に過去に戻れないという味気ない理由からではなく、あの時の私は、その時できるベストな選択をしていたと今でも思うからだ。
極端な話、競馬のレース結果を過去に戻ってその時を生きていた私に伝えたところで、私が本当に幸せになれるのかは疑問だ。それは手元に入る大金の代わりに、レースを様々な自分流のやり方で予測するという醍醐味である過程を失ってしまうから。全てが決められた通りに起こってしまっては、きっと何も記憶に残らない。
もしそうであったら、こうして6年経った今、あの時の気持ちや目の前に置かれたノートの内容を鮮明に思い出すことなんてできないだろう。

あの時、周囲が幸せそうに身を包んでいたリクルートスーツは、確かに私にとってみたら気を重くするだけの戦闘服だった。
それでも、今まで見なかった業界を覗いてみたり、ヒントになりそうな話が聞けそうな場に足を運んだり、その時にできるベストな選択をし続けていた。
何も未来にいる自分があの時の私より格上だとは限らない。その後起こり得ることを知っているからといって、それが確実にあの時の私に響くとは思えないのだ。

人生は会社じゃないから、合理的にじゃなく自分のペースで成長していく

必死に考え抜いて選択を重ねた自分を否定するようなことはしたくないし、励ましたくもない。万が一あの時に戻れたとしても、私は彼女の横を素通りしてしまうだろう。
そして彼女も私に頼らないでほしい。人生は会社と違って利益を追っているものではない。
ある過去の出来事を「失敗」と烙印を押すこともあるだろう。しかし同じ過ちを繰り返した時に職を失う会社とは訳が違う。

あなたの人生は終わらない。だって人生は利益を追うものではない。利益のように金銭とイコールの関係ではない。そんな単純なものではないのだ。
だから明日を楽しみにするし希望を探そうとする。利益を追ってではなく、自分の価値観に基づく成長を遂げていられたらそれでいいではないか。
現在に思い切りスポットライトを当てて、たまに過去を思い出して現在を微調整していく。過去を変えたいと願うのではなく、現在をより良くするために過去を大切に大切に抱きしめて生きられたら、それ以上に望むことなんてないはず。