母は、子供たちを待っていたかのように、その日息を引き取った
いつも通り、録り溜めしていたドラマを観ていた祝日の午後。兄から、「お母さんが今危篤状態。間に合うかどうかわからないけど、今病院へ向かってる」と連絡が入っていた。
理解できていないけれど、無我夢中で荷物をまとめて病院へ向かう私。コロナ禍なのでみんなで会うのは難しく、兄と弟、父と私の二人づつで母と対面した。
つい数週間前にはオンライン電話で元気そうに話していたのに、呼吸器をつけてやっと息をしている母の姿がそこにはあった。
母とは月に何度も長電話をしていたから、「この前友達と愛知に旅行したときにね……」「最近ランニングを始めて……」といつものように話しかけたけれど、聞こえていたかどうかはわからない。
「また来るね」と言い、みんなで家に帰り1時間ほど経つと、病院から母が亡くなったと連絡があった。
まるで子供たちが来るのを待っていたかのように、全員と話し終わると息を引き取ったのだ。
自分のことは後回しだった母だから、もらうべき寿命が短かったのかも
それから何日かは、お通夜や葬儀、火葬、告別式などが続き、母のことをゆっくりと考える時間がないほどバタバタしていた。お通夜を終え、一堂に会した親戚がお酒を飲みながらお母さんの話を交わそうとしていたときに、父の姿が見当たらない。
休憩室へ向かうと、葬儀場へ泊まる人用の布団を父が敷いていた。「手伝うよ」と言い、人数分の布団を敷き終わると、父は部屋の奥の隅で横になった。そして一言、「お母さん、一人で寂しかっただろうなあ。つらかっただろうなあ」とポツリと言ったのだ。
コロナ禍ということもあり、母を看取ることができず後悔している父に、私はなんの言葉もかけられなかった。ただそっと、父の隣で寝ることにした。
お通夜や葬儀を終え一段落すると、母がいると思い込んでいつものように明るくする私と、母がいないことを実感して沈み込んでしまう私が交錯する日々が続いた。そんなある日、祖母が発した一言が今でも強く残っている。
「お母さんは、これくらいの寿命しかもらわなかったんだね」
その言葉を聞いて、私は「なるほどな」と妙に納得した。
私の母は昔から、自分のことより周りのこと。贅沢は決してしないけれど、父や子供にお金や時間を使うことは惜しまなかった。洋服に関して言えば、父が母の洋服を買うためにお店へ行っても、結局父の服を選んでしまうほどだ。
そんな母だから、もらうべき寿命を短くしちゃったのかもしれない。できればもう少し一緒にいたかったから、もっと欲張ってほしかったけれど、母らしくもある。
今でも「お母さん、かわいそう」「お母さん、つらかっただろうな」と気が沈んでしまうときがあるけれど、病気になった期間は、母の人生のほんの一部でしかない。
母が生まれて育ったとき、父と出会って愛を育んだとき、私たちを産んで子育てをしたとき……。いろんな時間があった中で幸せだと思った瞬間は、私には量りきれないほどあったはずだ。「勝手にお母さんがつらかったって思わないで!」と、母が叫んでいる姿が目に浮かぶ。
大好き。ありがとう。そして「お母さんの子だから大丈夫」
もし今、母に会えるなら、まずは「大好きだよ」と伝えたい。子供のことはなんでもわかっている母のことだから、私たちの母への愛は伝わっていたと思うけれど、きちんと愛情を口にした数は少なかったと思う。
そしてなにより、「愛情深く育ててくれてありがとう」と言いたい。強くて優しい母に育ててもらったおかげで、私はここまで強い人間になれた。
旦那さんの姿も、孫の姿も見せることはできなかったけれど、今私が母へできることはただ一つ。母のようにみんなに愛情深く接していくことだ。
「お母さんの子なんだから大丈夫」という言葉が心に刻まれているから、これからつらいことがあっても乗り切れる気がして心強い。
お母さんにもらった愛情を、みんなに返していくからね。お母さん、今までお疲れ様。天国で私のこと待っててね。