私は生粋のおばあちゃんっ子。
私の両親はバリバリの共働きだったこともあり、祖母との時間がとても多かった。
保育園での送り迎えはもちろん、小学生になってからも、土日は祖母と過ごす事も多かった。
なのに何故、祖母の葬儀で泣けなかったのだろうか。

祖母はたくさん遊んでくれて、友達のように仲良しだった

私が物心ついた時には祖父は他界し、祖母は私たち家族の家の近くに住んでいた。今でもはっきりと覚えている、大きな庭の大きなお家。私はそこで沢山の時間を過ごした。
幼い私の面倒を見るのは、大変だったであろうに、明るくて元気だった祖母はたくさん遊んでくれて、友達のように仲良しだった。
しかし、決して祖母は"優しいおばあちゃん"ではない。私を甘やかすことなく、悪いことをしたらたくさん怒ったし、たくさん喧嘩もした。本当に親のような存在だったが、さっぱりした性格の祖母は、私に執着することなく、だからこそ尚更私は祖母が好きだった。

そして祖母は旅行がとにかく好きだった。
私の育児の合間をぬって、時々何週間かいなくなる時があった。今となっては普通かもしれないが、歳を重ねても、あの時代に海外に一人でアフリカやエジプトなど、どこまでも行く祖母はなかなか勇気溢れる人だったのだろう。祖母が帰ってきた翌日からはその旅行で何があったのか、ユニークな土産話に花を咲かせるのが、私の祖母のお決まりのお楽しみだった。
私にとって、祖母は近すぎる存在であり、唯一無二の時間を過ごさせてくれた、本当に大切な大好きな人。でも残念なことに、その時はそのありがたさに気付かなかった。

祖母の急な老いに、私は戸惑い、現実を信じることが出来なかった

中学、高校と進学するにつれて、私は部活でとても忙しくなった。
祖母の耳が遠くなり、認知症を発症したのもこの頃である。あんなに元気だった祖母は耳が聞こえないからか、話さなくなり、感情も表に出さなくなった。美味しいものが大好きで、ぽっちゃりしていた体も、糖尿病を患い、徐々に痩せていった。歳をとる、という一言では表せないくらいの急な老いに、私は戸惑い、現実を信じることが出来なかったのだろう。
介護施設に入った祖母に、私から連絡をすることもなくなり、時々母に連れられて会いに行っても、あまり会話にもならなかった。
いつの間にか、私と祖母の距離感は大きなものになっていた。

そしてあれは高校3年生の時、私は気になっている男の子と初めてのデートで緊張とドキドキで、少し地面から浮いているくらいの気分の真っ只中、祖母の危篤の知らせが入った。
舞い上がっていた私も、さすがに、さーっと冷めたのを覚えている。急いで帰って病院に向かったが、沢山のチューブに繋がれた祖母は、見るに耐えないほど苦しそうだった。その翌日、病院から一次帰宅していた私と母が、看護師からの急報を受けて駆けつけた時には、もう祖母は息をしていなかった。

私は祖母が命を引き取るまで、現実を見ないふりをし続けていた。幼い頃のあの祖母とはまるで違う人を見ているような、そんな感覚に陥ってしまっていた。
そして葬儀の時も、私は一切涙が出なかった。

たくさんのことを与えてくれた祖母に、私は何ひとつ恩返しができなかった

それからはとめどもなく迫り来る、後悔、罪悪感、なんであの時もっと寄り添ってあげなかったのだろう。なんであの時声をかけてあげなかったのだろう。なんで、泣けなかったのだろう。
本当はお別れの時に泣きたかったのに。辛くて悲しかったのに。
無気力で感情に穴が空いたようだった。
あんなにたくさんのことを与えてくれた祖母に、私は何ひとつ恩返しができなかった。
歳をとる毎にその負の感情は膨れ、今でも祖母を思い出すだけで涙が出る。心の中では数え切れないほど謝った。

そんな後悔だらけの私は、祖母にできなかった分、今は親を大切にしている。自己満足かもしれないが、もう同じような後悔はしたくないのだ。
今までどれほどの人が亡き人に、思いを伝えられなかったと後悔しているのだろう。
よく映画で、亡き人に思いを伝える、一時的に甦らせるといったシステムが登場するが、そんな便利なものがあったら、私はとっくに大金を払ってでも祖母にこの思いを伝えている。誰か、開発してくれないだろうか。

でももし伝えられるのであれば。

おばあちゃん、大好き。
そばにいてあげられなくてごめんね。
優しくできなくてごめんね。
おばあちゃんと海外旅行も行きたかった。
結婚式も、ひ孫も見せたかった。
頑張っていきているよ。
お母さんからよく言われるけど、私はおばあちゃんによく似ているみたい。
旅行もおばあちゃんの影響で大好きだよ。
いつか生まれ変わってまた会いたい。
本当に大好きだよ。