私よりも頭がよくて穏やかだった彼に、ただ会えるだけで幸せだった

仕事の忙しい彼と出会ったのは、3年前のこと。
これといったきっかけは無かったけれど、趣味が同じだった彼とはすぐに意気投合し、気が付けば仲良くなっていった。

彼は穏やかで、私よりうんと頭がよくて、いつも私の話を黙って聞いてくれた。
頭の良さをひけらかすことは決してなかったけれど、言葉の節々からそれを感じ取れるほど聡明な人だった。
仕事が忙しいのは私も十分に承知していたけれど、私がメッセージを送れば仕事が終わったあとに必ず返信があった。
私が悩んでいるときには、忙しい合間を縫い時間を作って会いに来てくれた。
誕生日に欲しいものを尋ねたときには「睡眠時間かな」と笑っていた。
そんな彼を好きになるまでに、時間はかからなかった。

彼は自分のことを必ず「僕」と言った。
そのことを彼にそれとなく尋ねてみたことがある。すると彼は、基本的に一人称は「僕」を使っている、昔からそうだったから、と教えてくれた。
穏やかな彼が、話し言葉でも書き言葉でも「僕」と発するたびに、私の心は彼のことでどんどんいっぱいになっていった。
彼のことを好きな理由はなんですか?と聞かれたら、わたしはきっと「一人称が『僕』だったから」と答えるだろう。

彼に会いに行く日は、必ず新しく買った服を着て行った。
会う直前には何度も鏡を見直して、変なところはないか確認した。
連絡がくればすぐに返信したし、自分がすごく忙しい日でも彼に会おうと誘われたら何が何でも彼に会いに行った。彼の仕事が終わらず予定の時間より2時間遅れても、ずっと待っていた。
彼に会えるだけで、私は本当に幸せだった。

夜中の呼び出し。その日、彼は何度も「かわいい」と言ってくれた

しかしそんな私の気持ちとは裏腹に、彼の仕事がさらに忙しくなり、返信が真夜中になることが増えた。会えない日が続いた。
付き合っているわけでもない、ただ片思いというだけの宙ぶらりんな状態だった寒い夜。
突然彼から連絡が届いた。

「もう寝ちゃう?」

今まではそこまで唐突に、しかも夜遅くに連絡が来ることがなかったので、とても驚いた。その連絡が、今から会えるかどうかを尋ねたいものだということは瞬時に察したので、私は急いでメイクを済ませ、着替えを行い、彼に会う準備をした。
人生であんなに素早くメイクを済ませたのは、あとにも先にもあのとき一回だけのように感じる。
そして彼との待ち合わせ場所に向かった。

冷たい雨の降る、暗くて寒い夜だった。

「ごめんね、肉まんもうなかったよ」
夜に呼び出したお詫びとしてコンビニの肉まんを食べたいとわがままを言った私に、彼は開口一番そう言った。
私は肉まんが食べたかったのではない。彼に、大好きな彼にただ会いたかっただけなのだ。
夜だからメイクなんてしなくてよかったよと言われたことも覚えている。しかし私は、かわいくない顔は見せられないから、と返事をした。

彼には一番かわいい自分だけを見ていてほしかった。少しでも好かれたいとずっと思っていた。
そこで彼に初めて言われた。
「かわいいの知ってるよ、何度も顔を見てるから」
すっぴんはかわいくないんだよ、と私が言うと、彼はその後も何度も「かわいい」と言ってくれた。

しかし会えなくなるまでの間、彼に「好き」だと言われたことは一度もなかった。
そして私も、彼に気持ちを伝えることが出来ずにいた。
彼が私を好きではないのはずっと感じ取っていたし、ただの友達だと思っていることも分かり切っていた。
でも私には、こんなに連絡が来るのだから、忙しくても会いに来てくれるのだから、とずっと彼への諦めきれないでいる気持ちもあった。

様々な出会いがあったのに、私の心の中にはいつまでも彼がいる

そうしているうちに彼の仕事の忙しさと返信の遅れは比例し、ほとんど連絡が来なくなった。
彼はもう私を夜中に呼び出すこともなかった。

彼と会えなくなってから、私にも様々な出会いがあった。
私のことを、好きだと何度も言ってくれる人もいた。
顔がかっこいい人もいたし、背が高くてスタイルがいい人もいた。彼以上に何度も会いに来てくれる人もいたし、高級車で迎えに来てくれる人もいた。
それでも私は彼を忘れられずにいた。

なぜそんなに彼を好きなのかと聞かれても、私にも全く分からない。
しかし何年経っても私は彼の言う「僕」という響きを思い出し、今でも彼に会いたいという気持ちを心に秘めている。
彼とやりとりをしたメッセージを、今でも消せずにいる。それなのに、会えないことが悲しくて、そのメッセージを読み返すことができないでいる。

どこかにいる彼に、もう一度会えないかと思うことさえある。
また一緒に笑いあい、今度こそコンビニの肉まんを一緒に食べられる日が来るのではないか、と期待している自分がいる。
大人になってまでこんなに子ども染みた恋愛感情を抱いている人間がいるのか、と馬鹿にされるかもしれない。
それでも私の心の中には、いつも彼だけがいた。
メッセージが来るたびに、彼からではないかと期待しながら。
「かわいいよ」と何度も言ってくれたあの寒くて冷たい雨の夜を何度も思い出しながら。

「僕はね…」そう言って笑う優しい彼にもし今会えたなら、私はこう伝えたい。
「あなたが大好きです」