あれは忘れもしない高校の2学期。
授業で夏休みの生物の宿題が返却されていた。
私には返却されず、授業後こっそり先生に呼び出された。
「どうやら玲の提出物を僕が紛失してしまったみたいで返せない。申し訳ない」
下を向いてぼそぼそ自信のなさそうに喋る、垢抜けていない、けれどとても優しい担任の先生だった。
私は驚いて暫く声が出なかった。
先生が私の宿題をなくしたからじゃない。
私は最初から生物の宿題を提出していなかった。
そもそも夏休みの宿題が多すぎて、生物の宿題があることすら頭から抜け落ちていた。
通信簿の生物の成績は5だった。
1学期も2学期も3学期も5だった。
イメージの恐ろしさを初めて知った、忘れもしない出来事だ。
私はそれくらい優等生で通っていた。
誰にも怒られない私のことを、唯一正面切って怒りイジってくれる先生
そうやっていろんなことを許されて生きていた気がする。
私は先生からも生徒からもイジられたり、怒られたりしない生徒だった。
でも唯一、私のことを正面切って怒ってくれてイジってくれる先生がいた。
それも豪快に、たとえば廊下の端にいても、もう片方の廊下の端から私を見つけ、廊下中に響くような大声で。
「玲ーーー!」
黒と紺しかセーターの色が許可されていない厳しい校則の高校で、私は自分が好きだからという理由だけでクリーム色を着ていた。
スカートもお店にわざわざ持って行って限界まで切ってもらって、そのうえで2回折って履いていた。
怒られない方がおかしい、校則違反丸出しの格好だった。
「やっば、見つかった。逃げろ」
走って女子トイレに逃げ込んだりしていた。
その先生は英語の教師で学年主任もしている、50代半ばの眼鏡をかけたいわゆるデブのH先生だった。
お世辞にもカッコいいとは言えない容姿だったけれど、私は先生のことが大好きだった。
優等生も落ちこぼれも暗い子も明るい子もキャラクターによって態度を変えたり変に遠慮したりせず、いつもはっきり自分の思ったことを言うH先生は、私には眩しい存在で格好良かった。
卒業式の日、私だけに「何かあったら連絡しろ」と声をかけてくれた
私が通っていた地元の中学校は、あの当時で言う不良の吹き溜まりみたいな場所だった。
授業中に煙草を吸ったり、廊下で中学生同士がディープキスを始めたり、校舎の窓は始終割れていたし、校内でカツアゲがあったりした。
でも教師たちは荒れる生徒にビビッて注意することができず、無視して授業を行ったり、不登校の生徒がクラスに何人いようと、いじめや暴力があろうと見て見ぬ振りをしていた。
GTOやごくせんを見て育った私は、実際の中学校の教師たちに失望していた。
あんな熱い先生はドラマの中にしか存在しないんだなと、絶望しながら入った高校で、H先生に出会った。
高校の卒業式の日に、職員室に会いに行った。
先生を見た瞬間、もう逢えない寂しさと出逢えた喜びで涙が零れた。
「触るとご利益がある」なんて生徒たちの間で話題になっていたお腹を撫でさせてもらったり、ツーショットも撮ってもらって抱きついた。
「お前はなんかあったら連絡しろよ」
先生の皆に平等なところが好きだったのに、私にだけかけてくれたその言葉が嬉しくて、本当にダメだと思ったら先生に連絡すればいいのだと思ってその後の人生も頑張れた。
先生が亡くなったと知らせを受けた時、私の中の大切な支えが消失した
だから就職して数年後、先生が亡くなったという知らせを受けた時、私は私の中の大切な支えが消失したと思った。
先生は私が卒業してすぐ偏差値のもっとずっと高い高校に転任したけれど、ダメな生徒とバチバチやり合いたいと言って、偏差値の低い高校への異動を希望していた。
そういうガッツと熱意のある先生だったから、無理がたたったのだろう。
高校生にとっては健康なんてみんなが持っている当たり前のことすぎてその尊さがわからないけれど、大人の私からみたらあの当時の先生の異常に腹の突き出た体型は笑い事じゃすまされない体型だった。
キャベツダイエットをしているなんて言っていた時期もあったけれど、3年間成果が出たのを私は一度も見たことがなかった。
もし今、先生に会えたなら、どれだけ私にとって大切でかけがえのない先生だったか照れずに伝えられるだろうか。
結婚したことや今の職場のことを話すだろうか。
いや、意外と何も言わないのかもしれない。
ただ先生が私の頼れる砦として、どこかの高校で元気に教師をしながら生きていてくれたら、私はそれで満足だったのかもしれない。