一人は寂しいことなの?悲しいことなの?悪いことなの?
私はこの問いにNOと言いたい。あの時の自分に、もっと早くNOと言ってあげたい。
私の中で「独り」が「ひとり」に変わったのは、高校二年生の頃だ。
相性関係なくクラスメートと付き合う学生生活は、息苦しかった
クラス替えはやけに緊張してしまう。高校二年生に上がるときも、そうだった。一年生の時は自然と友達ができて、毎日休み時間や授業中、掃除時間までもが楽しかった。
緊張するけど、頑張って話しかけてみよう。みんなもそわそわしているはずだし、早い者勝ちだ! そうした思いで勇気を振り絞り、手当たり次第、人に話しかけたものの、話が弾む相手はいなかった。そのまま無理矢理、一緒に「いてくれる」人を何人か見つけて、お弁当を一緒に食べて「くれる」人の機嫌をとる毎日だった。
大学生になった今思うのは、「クラスルーム」の中での生活を重んじられる学生生活は、私には合っていなかったということだ。
一日の大半を教室の中で過ごし、相性関係なくクラスメートとは一年間を通して付き合っていかなければならない。それが、私にとっては違和感を覚えることで、とても息苦しいことだった。
それでも合わない人と一緒にいたのは、ひとりでもいいやと吹っ切れられなかったのは、「独り」が怖かったから。独りは「可哀想」、「性格に難があるから」と周りから心配されると思い込んでいたからだ。
クラスに馴染もうとすることをやめた分、勉強に集中できている
そんな私の恐れなんて無視するかのように、クラスメートとの感覚の違いは大きくなり、私と「一緒にいたい」人なんていないことに嫌でも気づき始めた。苦しかった。周りでは楽しそうな笑い声が響いているのに、私は本音で笑ったことがない。本音で意見を言ったこともなかった。
家では、親に学校での楽しい出来事を報告できなくて申し訳なかった。「楽しかったよ」なんて愛想笑いでも言えるくらいに程々に楽しかったらどんなに良かったか。毎晩枕に顔を埋め、身体を丸めては静かに泣いた。
そんな夜が続き、感情に変化が訪れた。くよくよ悩んでいることが馬鹿らしくなったのだ。悲しさと悔しさしか感じていなかったことに身体が緊急措置を講じたのだろう。私の思考は論理的な切り口に変わり、「なぜ友達がいないことが悪いことなのか?」「むしろ合わない人と無理して一緒にいる方が苦しいのでは?」といった思考になった。
この思考は教室で過ごすこと、生きることをずいぶん楽にしてくれた。その日以来、私は無理にクラスに馴染もうとすることをやめ、勉強や読書などに時間を割いた。
「私は、今回のクラスではたまたま合う人がいなかったけど、その代わりに今、勉強に集中できているんだ!」
ひとりも悪くない。周りにもひとりを楽しんでいる人がいると気づいた
ひとりは悪いことではない。むしろ、やりたいことを全力でやる時間を取れるひとりの時間は誰にでも必要だったりする。私はその時間を人よりたっぷり取れただけなのだ。
大学生になってから私は、あの頃よりもさらに「ひとり」に抵抗がなくなった。観たい映画があればひとりで観に行っては深く感傷に浸る。欲しい本があれば本屋に立ち寄り、四時間ほど関係ない本にまで浮気をする。
ひとりなら、何でもできる。好きなだけ、好きなように。「ひとりも悪くない」と思えてからは、周りにはこんなにも多く「ひとり」を楽しんでいる人々がいたんだと気づけた。
「人は思っているよりも他人のことを見ていない」とは本当だと思う。みんなそれぞれの好きなことに夢中で、周りなんか気にならないみたいだ。
だから、周りを気にしすぎて、あることないことに思い悩むのは勿体ないと思う。自分のやりたいことをやり、自分が一緒にいたいと思う人と一緒にいることを選び、「ひとり」の自分を好きになることは人生を明るく照らす。
ひとり「で」いい、と言える自分になれて良かった。