人生の1/4が過ぎた今、何をしても隣の芝生が青く見える

かつて10歳の頃、未来の自分に宛てた手紙は、まだ見ぬ未来に対する明るい希望に満ち溢れていた。
25歳になった今、未来の自分に宛てて書こうとしているこの手紙は、現在抱える不安のはけ口になっている。
それも無理はない。
現在、“クォーターライフ・クライシス”、つまり人生の4分の1が過ぎた頃に訪れる幸福感の低迷期の真っ只中。何をしても隣の芝生が青く見えて虚しい気持ちになる。

そんな私の仕事用のインスタグラムは虚栄心に満ち溢れている。
愛読書に花を添えて撮った写真や、ラジオブースに佇む私の写真を載せることで、丁寧な暮らしをしているラジオパーソナリティに見えるようにはったりをかましているのだ。
そのアカウントとは裏腹に、私生活用のインスタグラムはナースコール的な役割を果たしている。
ストレスを溜め込みやすい私は、心の火山が噴火する寸前で、ストーリーを通してSOSを出す。そのストーリーを見て連絡をくれる心優しい友人たちに支えてもらっている。

同年代の友人たちの仕事もひとしきり落ち着いて、インスタグラムには婚姻届に指輪が添えられた写真や有休を使って行った旅行の投稿で溢れ返っている。その甲斐あって、私へのオススメ投稿までブライダル関連や旅行関連のものばかり。幸せオーラに心が蝕まれてしまいひねくれた性格に拍車がかかるので極力開かないようにしている。

生きることってこんなにハードだったっけ?

美容部員もコールセンターの仕事も身体が弱いために1年も続かなかった私。
今は体調に気遣いながらリハビリの一環でラジオの仕事をしている。
のちのちはラジオを極めるのもありだし、今ご縁があって書くようになったエッセイを仕事にするのも憧れる。しかし時折まだ見ぬ未来に期待するのがしんどくなって、この“人生ゲーム”をリタイアするか、潔く私のことをよく思ってくれる人と結婚して専業家政婦にしてもらえたらななんて生ぬるいことを考えてしまう。

こんなに生きることってハードだったっけ?これまでが恵まれすぎていたのか?もしかしたら今も他の人より恵まれているのか?

考えれば考えるほど、これまでの選択をしてきた自分を認めてあげられなくて自己嫌悪に陥る。
そんな私の最近の口癖は「あっという間に1日が終わっちゃう」。
毎日の生活のルーティンすらこなすのが困難になってしまった私。
洗濯をしたりお風呂に入るだけでも「でかした!」と思っている。
リハビリも終えて本格的に働けるようになるには心療内科の診断書や区役所での手続きが必要で、少しずつしか歩みを進めることができない。

こんな私を認めてくれるのは、他の誰でもなく自分だけ

先日、久しぶりに会った親友に私の苦しい胸の内を話した。
彼女は常日頃から私のことを気にかけてくれており、体調に気遣いながらラジオの仕事をしていることはすでに知ってくれている。
彼女と話す中で気付けたこと、それは仕事用のインスタグラムしか見ていない友人は「私のキラキラした一面しか見えていない」ということだ。

かくいう私も私生活用のインスタグラムで、入籍したばかりの友人や楽しかった旅行に心を弾ませる友人のキラキラした部分しか見えていないことを知った。
彼女との会話を通して、入籍と同時に「稼ぎ頭がいるなら」と左遷されてしまった友人もいれば、毎晩終電で帰る多忙さに心身共に疲弊している友人が貯まりに貯まった有休を消化していたことも知った。

SNSが普及した今、“クォーターライフ・クライシス”に拍車がかかってしまう子は少なくない。
今の自分を自分自身が認めてあげられたらいいのだけれど、それがなかなか難しい。
10歳の頃のように無邪気なまなざしで未来に希望を持つ純白さも、いつの間にか黒々とくすんでしまった私。
そんな私を認めてくれるのは、他の誰でもなく自分しかいないと思っている。
今の自分が自分自身を認めてあげるために、出来ることなら10年後の私に会ってみたい。そして「大丈夫だよ、これまでよく頑張ってきたね」と認めながら優しく抱き締めてほしい。