「一日自由に過ごしてこい。家で掃除洗濯するでもいいし、映画館に行ってきてもいい。ただ、夕方にはここに戻ってこい」
大学を卒業後、入社して間もない4月半のこと。仮配属先の支店長から朝礼後、私を含む新人4名に放たれた言葉だ。
支店長からの突然の言葉に驚くも、各々が一旦解散したある日のこと
4人ともキョトンとしていた。真っ黒でシワひとつないリクルートスーツが似合わない4人。
「……え?」と、誰もが目を合わせながら、この言葉は何を示唆しているのかと、寝起きかつシワひとつない脳みそをフル回転させていた。
「言葉の通りや。やりたいことやってきい。なんでもええねん。ほな」
そう言うと、支店長は自席に戻ってしまった。
しんと静まった事務室。キッチンには淹れたてのコーヒーの香りが漂っている。先輩社員らは営業先に行くために荷物を積んだり書類作成に勤しんでいる。
「ほんとに、何してもいいのかな?」
4人のうちの1人が言う。
「いいんじゃない?だって、支店長がそう言ってるんだし」
「せっかく研修にきたのに?ここの支店、全国でも1番忙しくて大変だって聞いてたから覚悟してきたんだけど」
「まだ研修期間数週間あるのに……投げやりにされたのかな」
口々にこの状況を分析するも、まだ半分大学生な私たちには到底理解できなかった。
とりあえず、4人揃って支店長や先輩らに一言声をかけ、外に出た。
「じゃあ、また後で」
みんなの背中を見送ると、私は何をしようかと妄想を膨らませた。せっかく地元とは離れた土地に来たのだから、この町を散策しよう。一度借り上げアパートに戻り私服に着替えると、私は駅前の大通りへと歩みを進めた。
仕事を忘れて入ったお店が、この街を好きになる理由になった
仕事のことは一旦忘れた。ただ、ふらっと歩いて気になる店に入る。
このあたりは喫茶文化が根付いているのか。歩行者天国内の焦茶のカウンターが心地良い喫茶店に入る。
木ベラでコーヒーを攪拌させる。こぽこぽと沸騰するお湯が茶色くなり、下のガラスに落ちてゆく。コーヒーの香りが立ち込める。鞄に忍ばせていた文庫本を手に取る。こんな時間がいつまでも続けばいいなと思った。
喫茶店の近くに古本屋を見つけた。好きな作家の本やイラストレーターが挿絵をしている絵本を見つけた。この町が好きだと思った。
レッドホットチリペッパーズの流れるパン屋もあった。ハンバーガーが美味しかった。店内はこぢんまりとしているが、焼きたてのパンがいくつも並んでおり、店内のオレンジ色のランプが今も目に焼き付いている。この町を離れるまでに、私は何度ここに足を運んだだろう。
あの日のあなたがいたから、私はいまを楽しく生きられています
夕方4時を回り、4人はポツポツと支店に戻ってきた。
何をして過ごしたか尋ね合う。家事を一通り済まし、家で寝ていた人、レンタルサイクルを借りて観光地を巡った人、各々が充実した時間を過ごせたようで、今朝とは打って変わって清々しい表情を誰もがしていた。
支店長が事務室に来る。何をして過ごしたか一人一人に尋ねる。支店長は優しく頷き、時にツッコミを挟みながら丁寧に聞く。
どうしてこんなことを指示したのか。最後に話してくれた。
この先、どんな仕事をしていてもしんどくなる時がある。やる気が出なかったり、行き詰まったり。
そんな時に、今日みたいに一日何もしない日があってもいい。仕事するべき時に、敢えて何もせずに好きに過ごす。そうすると、後で焦りがでてくる。周りの人は仕事をしているのにと。そこから一気にやる気がでて、効率の良い仕事ができることもある。
何が言いたいかと言うと、何事もメリハリが大事ということ。惰性でなにかをやるより、きちっとその目標を定めて向き合う方が、無駄な時間を過ごさなくて済むし、いいパフォーマンスができる。
だからといって毎日こんなことしてたらあかんで。そこは自分の中で考えや。
あれから5年が経った。
社会に出ることは決して大変なことばかりではないと、背中をあの日から今でも押してもらっている。
あなたがいたから私は、いまを楽しく生きていられてます。また、コーヒーを飲みながら顔を合わせて話したいです。