忘れられない女の子になりたかった。
彼の、忘れられない女の子になりたかったのだ。
だから、わたしは彼が良い香りだねって褒めてくれたあの香水を、別れてからもずっと、たいせつに持ち続けている。

彼の匂いは感じないほど心地よく、遺伝子的な相性はよかったのかも

あの香りを纏うたび、心の奥がギュッと、くるしくて、少しあたたかい気持ちになる。
あの頃、彼はわたしのことを大切にしてくれていて、確かに好き合っていた。
大学の先輩からの紹介で出会ってから、長い時間をかけて、やっと、週末のどちらかを占拠できる関係になれた。
手を繋ぐのも、キスをするのも、それからも。
少しずつ進んでいくことが、なんだか初めての恋をしているようで、綺麗な自分でいられる気がして、とても嬉しかった。

彼は香水を付けない人だった。
正直、彼の香りについては、あまり記憶がない。
どんなに近い距離にいても、体臭を強く感じたことがなかった。
一説によると、匂いというのは遺伝子的に相性を確かめられるものだという。
わたしが彼の香りを感じなかった、すなわち心地よいと感じていた、ということは遺伝子的な相性は良かったのかもしれない。

けれど、こうしたことも、もう会えなくなってからじゃないと気づけなかったりする。
いつでも会える距離の時、彼の香りについて考えることなんて、一度もなかったのだから。
ずっと一緒にいると思っていたし、いつか、結婚とかしちゃうかもしれない。
そんなことしか考えていなかったのだから。

いい人じゃなくて、頭をもっとわたしでいっぱいにしたらいいのに

週に1度か2週間に1度、逢瀬の約束はできても、話したいと思っていたことは、彼の前に立つとどうしてか何も言えなくなってしまう。
それは、わたしをもっと好きになってくれるようなかわいいお願いもだし、きちんと向き合って話し合いたかったこともだ。
目の前の彼と一緒にいることがただ楽しくて、ただ満たされていて、それだけで他に言わんとしていたことなんてもう、どうだってよくなってしまうのだ。

けれど、2人の時間はとても短い。
週末を越えれば、どんなに拒もうとも平日はやってくる。
ひとりの時間は、渇きと寂しさに満ちている。
自分の渇きを満たすために、新しく「ひとり」の人間として成し遂げたいことをたくさん考えられるし、新しい人に会いにも、どこにでも行ける。
ただ、彼だけが、いない。

どんな挑戦も彼は面白そうだねって笑ってくれて、わたしがやりたいことをして、その話を聞かせてくれれば十分だって、いつだって伝えてくれていた。
たぶん、とてもいい人だった。
でも、いい人でいて欲しくなかった。
もっともっとわたしのことで頭をいっぱいにしてくれたらいいのに。
彼が褒めてくれた香水を纏うたび、そんなことばかりを考えてしまうのだ。

甘い過去だけを思い出して、勝手に感傷に浸る。それくらい許して

女の子は、自分の人生を生きた方がいい。
こういうアドバイスをツイッターの恋愛マスターみたいな人が言っているのをみたことがある。
恋愛なんて組み合わせ無限大なのだから、マスターなんてできるかよ。なんてことは置いておいて。

たぶん、どんなに好きでも自分の人生だけは見失わない方がいいのだろう。
けれど、若いうちの好きって、全部を失ってもまあ良いかと思えるものなのかもしれない、とも思う。
全てはあなた中心でもいいと思えてしまうのが、恋と愛の間にあるものなのかもしれない。

今さらもう会いたいとは思わないけれど、どこかで元気でいてくれたら、それでいいな。
なんてことを星のない曇った空を見つめて思った。

独りになってしまった。
中原中也も言っていたけれど、星を見るのは孤独だから。
星は永遠に手が届かないから、ずーっと眺めて、ずーっと考え事をするのにちょうどいい。
大体もう会えない人のことを、甘い過去だけを思い出して、勝手に感傷に浸る。
それくらい許して欲しい。

信号が点滅して、急足を早めた瞬間、彼に褒められた香水の香りが鼻をかすめた。

ああ。
少しだけ分けてあげたあの香りを、街の中で感じた時、わたしのことを思い出してくれたら。
本望だ。
だからもう。