いつしか人の目を気にしてしまい、時に無理して、集団行動に勤しんだ

私は「1人」が好きだ。もちろん、人といるのも好きだ。でも1人だからこそ目の前の対象物にしっかりと向き合い、味わうことができる。自分自身とのコミュニケーションを図る上で、こうした時間はとっても大切だと思うのだ。

私は1人でいることに対して、若干ネガティブなイメージを持っていた時があった。それはおそらく、学生生活での集団行動が起因していると思う。
登下校、昼食、休憩時間、体育の時間など、ペアやグループでいないと「あの子、ともだちいないんだね」と思われる風潮が少なからずあったように思う。
私はいつしか人の目を気にしてしまい、時に無理して、集団行動に勤しんだ。そしていつからか、自分の好きなものってなんだっけ?というつまらない人間になってしまっていた。

その瞬間の自分の感想と向き合って過ごせば、結構楽しいと気づいた

そんな私が初めて「1人が楽しい」と思ったのは大学生の時。当時、海外旅行に行きたいと思っていたが興味を持ってくれる友人がおらず、1人で旅行に行くということも視野に入れていた。
なんとなしにホテルサイトでお気に入り登録をしたつもりが、キャンセル不可のものを予約してしまっており、勢いで「1人イギリス旅行」が決まった。
当時は不安の方が大きかった。英語も十分に話せず、どんなことをすれば1人の時間が寂しくないか、というところに、自分の意識がフォーカスしてしまっていた。
だから、なるべく寂しくないようにたくさんの予定を詰め込んだ。観劇、美術館、など1人でいても楽しめることが保証されているものを。

結果から言えば、1人でも十分楽しめた。何が楽しかったかと言えば、詰め込んでいた観劇や美術館の予定ではなく、何気ないことだった。
ホテルの人との何気ないやりとり、街で生活している人の様子を見ながら歩いているだけで楽しかった。予定を詰め込まなくても、その瞬間の自分の感想と向き合いながら過ごせば、結構楽しいんだと気づいたのだ。
気づけば、「誰かといるから楽しい」という呪縛に、いつからか縛られていたのだと思う。そして、1人じゃできないことだと思い込んで、自分自身の選択肢を自ら狭めてしまっていたのだと。

1人でいると観察力がつき、人の魅力を自然と見つけやすくなった

今は、もっと自由に1人の時間を楽しめている。
朝起きた瞬間、窓を開けてベランダに出て日光浴をしながら白湯を飲む。近くの公園に行って甲羅干しをする亀をそっと観察する。見慣れた街を、ちょっと違うルートで歩いて、そこで生活している人を感じる。
また、1人だと喫茶店の人も話しかけてくれたり、よりその空間にいる人とのコミュニケーションが広がるんだな、と感じる場面もたくさんあった。

気づけば、周りの人の優しさに触れて「1人ではない」のかもしれないけれど、1人で行動をしてもたくさんの楽しみ方がある。今でも、唐突に夜から東京タワーに向かって徒歩で散歩をし、「東京タワーってこんな大きいんだな」と感じて帰る、みたいなことをよくしている。

不思議なもので、1人の楽しみ方を覚えると、人とのコミュニケーションがより楽しくなった。多分これは、楽しみ方上手になったからなんじゃないかと、私は勝手に思っている。
1人で道を歩いているだけでも良いところを見つけたりと、自然と観察する力がついて、今話している人の良いところ、魅力的なところを自然と見つけやすくなった。
そうして俄然その人に対しての興味が湧き、無理せず自然に楽しいコミュニケーションを図れるようになった。