私はすべての情報を誰かに喋りたくて、伝えたくて仕方がない
自他ともに認める“お喋り女”の私にとって、1人時間の楽しさを何百倍にもしてくれたのは「文章を書く」という趣味を見つけてからだった。
母親に、こう言われたことがある。
「首が座るのも、ハイハイも、立ち上がるのも人並みだったけど、喋るのだけはめちゃくちゃ早かった。生まれてすぐに喋ってた」
生まれてすぐには大袈裟だろ、と思っていたけど、ホームビデオで見る2歳の私は、確かに5歳児並みに喋っている。ちょっと怖い。
「よくそんなに喋れるね」と言われたこともあるし、「喋りすぎて気持ち悪い」と言われたこともある。
「喋ってくれて本当にありがたい」と言われたこともあるし、「うるさい、一旦黙って」と言われたこともある。
さらには、「よく喋る」だけでなく「ちゃんとオチがある」と言ってもらう事も多々ある。
小学生の頃から、「アメトーーク!」と「(人志松本の)すべらない話」を欠かさず見ていたくらいに、お笑い番組が好きだったからだろうか。
今の彼氏には付き合って間もない頃に、「彼女どんな子?って聞かれたらなんて答えてるの?」と聞いたら「『話にオチがある子です』って答えてる」と言われて、さすがに笑ってしまった。
そんな感じで、私は生まれた時から意図せず「喋ること」「順序立ててオチを付けて話すこと」に長けている人間だった。
楽しくてご機嫌な時ほど、よりお喋りになり、欲のままに喋る。
人の面白い話を聞いたり、素晴らしい映画を見たり、本を読んで膨大な知識を手に入れようものなら、全ての情報を誰かに喋りたくて、伝えたくて仕方ない。
仕入れたものは、知らせたい。伝えたい。
インプットしたら、アウトプットしたい。
その手段が、私にとっては「お喋り」であり、ひとつの特技兼趣味だった。
「お喋り」を披露する場所を奪われた私は「文章を書く」ことにした
「お喋り」というのは、対“人”なわけで、当たり前だけれど1人では成立しない。
けれど私はこう見えて、1人時間を楽しむことも昔から得意だった。
1人でカフェに入ったり、3駅とか街一周とか信じられない距離を散歩したり、本屋にひたすら入り浸ったり、無駄に洋服を見にいったり、YouTubeを見たり読書したり。
1人で出かけて情報を仕入れることや、何かを感じて頭で整理する時間は、今も昔もとても好きな時間だ。そしてそれを、仲の良い友達や職場の先輩に話して笑ってもらったり、会話が弾んで新たな情報を仕入れるのはもっと好きな時間だった。
しかし2020年、例のアイツが人々の世界を遮断した。
コロナのせいで人と会う機会が減り、自動的に私の「お喋り」を披露する機会は格段に減ってしまった。友人と会えない、直接人と対面できない世界の中で、私にとって「言葉にして吐き出すこと」がどれほど大切で、どんな意味を持っていたのか、改めて思い知らされる。
超絶、面白いユーチューバーを見つけた。
とてつもなく感動する本に巡り会えた。
SNSで好みのフレーズを見つけた。
映画で主人公が着ていた服が、最高にステキだった。
そんな風に、人と会わない中でも私の感情を動かす出来事は絶え間なく起きているのに。
日常の些細なことでもただ感動して、その感情をどうにか形にしたくなる。
ああ、誰かに話したい。この感動。この気持ち。
どれだけ大袈裟でも、気持ち悪い表現でも、ストレートでも回りくどくても、「整理して(=オチや結論を付けて)吐き出すこと」は私にとって、とても必要なことだ。
私はその手段を、他者がいないと出来ない「お喋り」から、1人でも出来る「文章を書くこと」にシフトした。
まるでお喋りするように、文章で豊かに感情を表現していく
私のお喋りを聞いてくれる人が目の前にいないとしても、ただ文章にするだけで気持ちはいつも満たされた。
それに、宙に浮いてなくなってしまう会話とは違って、文章は必ずどこかに残るものだ。
そんな私のお喋りが形になった文章は、SNSの力で一人歩きするようになった。
スマホもPCも、「喋りすぎ!文字数!」とか言ってくることもない。
発信すれば、世界中の誰かが1人くらいは見てくれる。
見知らぬ人がいいねを押してくれる場所がある。
私の心の中を、日常の感動を、自由にシェアしても誰も咎めない。
その時の自分の感情をスピーディに言葉で表して、目の前の相手を笑わせたり、セッションできることも楽しかった。その世界も、十分に良かった。
だけど文章を書けるようになった今は、もっと自由だ。
自分に起きた物事を記憶して、後から整理して、様々な表現でアウトプットを楽しめる。
優しい表現でもいい、たまには荒々しい言葉でもいい。
珍しく少し賢そうな言葉を使ってみようか。
こんな風に考えながら、文章を書くのは大好きで大切な時間だ。
まるでお喋りするように、豊かに感情を表現できること。
「文章を書く」という趣味に出会えて、私の1人時間は、より一層豊かなものになった。