特技なんてない。特別なことなんて何一つできなかったし、持ってもいなかった。誇りを持てる仕事もない。私には何もなかった。「文章を書く」なんて、自分にはできないと決めつけていた。
ある時、「何者でもない自分が嫌で物語を描くことを始めた」というアイドルの話を耳にした。
「『文章を書く』かぁ……」。文章なんて小学生の頃の読書感想文とか卒業文集を書いた程度で、あの時、出来上がった自分の文章と友達の文章を比較して「私も彼、彼女のようにまとまった文章をこんなふうに感動的に書けたらどんなに良いか」と、自分の文章がやけに恥ずかしく感じた記憶しかなかった。
それからというもの、「物語なんて頭の固い私には無理だし、考えをまとめられないから文章なんて書くもんじゃない」そう、10年以上思ってきた。でも、いつからか自分の考えを表現することがとても大事だと感じ、そして、自分の感性が人とは少しズレた独特なものだと認識し始めた。
私は有名人でも専門家でもない。私には特別な才能も見つからなかった
「本を出版する」。ただぼんやりとやってみたいと思った。そう思いながら本屋をぐるりと一周して、私はまたあの感情を思い出す。
「私には何もない」。誰かに教えられる専門的な知識もない。本屋で見かけた著者、デヴィ夫人やミシェル・オバマは他の人が滅多に味わえない「国のトップの妻」という境遇を体験した。彼女達の人生には他人が興味を持つ理由があった。アイドルの彼もだ。
その他、多数の人が味わえない特別な経験をして特別な境遇にいる。店頭に並んでいる本はどれも「有名な誰か」か「特別な何か」を持っていた。何者でもないと悩んだ彼も、私からしたら明らかに特別な何者かだった。
私は彼や彼女達と同じにはなれない。その時、何かが吹っ切れたんだと思う。私には特別な才能も、一生懸命になれる仕事も見つからなかった。
でもだからこそ、「自分の持っているカード、全てを利用して自分の人生を豊かにさせよう」と決めた。とても野心的な感情だった。
一種の敵意だったのかもしれない。嫉妬だったのかもしれない。何者かになれる彼らに対しての。諦めかけたその時に、別のチャンスがきた。
かがみよかがみのテーマを見て、「自分の書きたいこと」が浮かんだ
そう意気込んだものの、「何を書く?」「何が書ける?」と何か特別なもの……挙げるとすれば、よく海外旅行に行くことぐらいだった。
「旅について書くか……」。出版社に出版企画書を送ってから返事がないままに時間だけが過ぎていた時、不意に目に入った広告が「かがみよかがみ」の「ふった理由、ふられた理由」だった。
このテーマを見た時、自分の書きたいことが浮かんだ。エッセイなんて書いたことはなかった。それなのに指の進みは止められなくて、一気に書いた。
出来がいいか、悪いかなんて気にしなかった。ただ、書いて気持ちがよかった。その時は
誰にどう思われるかなんて考えず、自分の中で引っかかっている感情を吐き出すような、そんな感覚に近かった。
それから数日後、締め切り当日に書いた私のエッセイ「『別れた理由』を探す私は、今も彷徨い続ける。その理由がわかっているだけで、上出来」の掲載のお知らせがきた。純粋に嬉しかった。自分の過去が、考えが、他人に認められた気がした。
エッセイを繋げると私の人生になり、自分と向き合う手助けをしてくれる
それからエッセイを書いていくうちに、いろいろなことに気づいた。書きながら自分の気持ちに整理がつくこと、自分が気付いていなかった過去の出来事への感情、今の考えに行き着いたきっかけ、理由、自分の過去の経験全てが今に活きて、今の自分を作っている。そう思えた。
良かった。無駄なものなんて、何一つなかった。あの時の辛さも、後悔も、自分がした選択も。間違いじゃなかった。
エッセイは、人生の軌跡だ。一つ一つのエッセイを繋げると私の人生になる。過去の自分と、そして今に自分と向き合う手助けをしてくれる。
最初はただ、自分のもやもやを発散するために書いたエッセイは、見落としていた自分の気持ちを気づかせてくれ、私にとってこれまでの自分を客観的に見せてくれる鏡になった。