突然だが、私は一匹狼である。
結論から言ってしまうと、そうならざるを得なくなった所以があるのだが、だからこそその醍醐味を知っている。

周りから孤立し、親友は一人の友人に変わり、私は人間不信になった

私は物心ついたときには友人と呼べる人が少なかった。小学校に入学してからまもなくしていじめに遭い、それから9年間は同級生からの村八分が始まった。唯一親友だと信じていた子も次第に私から離れていき、一人の友人となってしまった。小学生の内はまだ鬼ごっこやケイドロの一コマになればいいだけの話であったが、中学校に上がってからが本番だった。

中学生になると、皆で外遊びを楽しんでいた小学生の頃とは一転、仲良しグループを作って少人数での会話を好むようになる。
きっと違う小学校だった子が仲良くしてくれると思ったのも束の間、そこでも次第に孤立し、5月の終わり頃にはいじめの対象となっていた。
休み時間に廊下ですれ違えば避けられ、はしゃぎ立てられた。汚い者として扱われ、悪ふざけで私の方に悪友を押し出す者もいた。安全も女性性も守られていない極悪非道な行いだった。「やめなよー」と、助けに入ってくれる生徒は誰もおらず、教師も見て見ぬふりであった。
中学入学から一年も経たぬ間に私は人間不信となり、人と目を見て会話をすることすらできなくなっていた。話し相手はおらず、これといった趣味もなかったことから、当初は人生のつまらなさに退屈し、大人になったら自殺してしまうのだろうとも思っていた。

私の人生に光を与えた、母の読む医学書と一人で楽しむ術

そんな私の人生にわずかな光が見えてきたのは、ちょうど2年生に上がった頃のことであった。
看護学を教えていた母の読む医学書が興味深く、そのまま精神医学や患者学に没頭していった。世の中には支援を必要としながらも病気が理解されずに報われない人がいる。そういった人に限って世間からは冷ややかな目で見られている。専門書や書籍、患者のブログから、中学生にしては早すぎる社会的弱者の発見をしてしまった。
私は将来作家か研究者になり、上述した人々に光を当てていきたいと思うようになっていった。それからの私は、今まで以上に勉強することが好きになった。

しかしまだまだ未成年。遊び心が完全になくなったわけではなかった。
遊んでくれる友達は殆どいないけれど、遊びのない人生は嫌だ。そんな私は一人を楽しむ術を覚えた。
一人外食、一人カラオケ、一人ショッピング……。周囲に人がいないことでコンテンツを楽しむことに集中できる環境は楽しかった。周りに合わせる必要は何もない。気付かぬ間に誰もが驚く積極性と行動力を身につけ、今後の人生でも大きく役立つこととなった。

孤独という絶望から得たものは、人生を大きく広げてくれた

大学のサークル選び、シンポジウムへの参加、研究室訪問、調査対象者との折衝。私は大学の友人が抵抗を持つものを一人で難なくこなしていった。
行動力があるからこそ生まれた発見やコミュニティも沢山あった。気付かぬ間に身につけた術は、人生を大きく広げてくれた。

よくよく考えると、私は小学生の頃から高等教育機関でしか習わないような分野に関心があったから、公立小・中学校という環境が合わなかったのだ。だからこそ興味・関心の共有できる一部の人との出会いを大切にするために、一人で行動する力が必要だった。
同時に、子どもの頃の訓練があったから、今会いたい人に積極的にアプローチをすることができている。孤独という絶望から長年の時を経て富を得ることができた私は幸せ者だ。

私ひとりの楽しみ方、それは私の人生の全てである。これは決して孤独ではなく、自身や社会の幸福を得るために必要な手段である。