人の顔色に敏感で疲れてしまう性質。「ひとり」知らない街で楽しむ冒険

子供の頃から人の顔色に敏感だった。
いつの間にか、表情や声色から相手の考えていることを予測する癖がついた。幸か不幸か、その予測が見事正解する経験を何度も重ねながら大人になった。

例えば友人とランチの相談をしている時である。
友人が「イタリアンか中華はどうかな」と選択肢を提示する。その瞬間から、表情や声色に基づいて友人がどちらを望んでいるかの予測が無意識に始まる。私はその予測を参考に「イタリアンは?」と答える。
正解だったのだろう、友人は安堵の表情を浮かべる。

もしこの時に中華の気分だったとしても、相手の希望が見えていながら相反することを主張するのはかなりの勇気を要する。不正解を叩きつけてしまった時の相手の表情を想像するだけで辛くなってしまう。

そんなことを会話中に繰り返してしまうので、人と過ごす時間に結構なエネルギーを使う。その時間がどんなに楽しかったとしてもである。

この性質を自覚するにつれて、ひとりで過ごす時間が増えていった。それは何も予測することなく、自分の気持ちだけに耳を傾けていられる、静かで軽やかな時間であった。

知らない街へ出掛け、目に留まった小さな喫茶店に立ち寄る。そして、その街で暮らす自分を想像してみる。
それが私の一番気に入っている、「ひとり」の楽しみ方である。
ひとりの時間は私を冒険家にしてくれる。自分の気持ちと行動次第でどこへだって行けるし、留まることだって出来る。
この静かで軽やかな時間は、ひとりで生きることを選ぶ者の特権だと思っていた。

自分と同じような性質の彼との出会い。「ふたり」の心強さを知った

しかし二十代後半になったある日、私と同じくらい、他人の顔色に敏感な人に出会った。その他の面でもその彼と私は驚くほどそっくりで、意気投合した。

出会いから数年が経ち、今は彼と一緒に生活を送っている。お互いの性質をわかっているからこそ、お互いの本当の気持ちを大切にすることが出来て居心地が良い。
彼と「ふたり」で生きるようになってから、心強さが芽生え、意外にも少し生きやすくなった。

今の私のひとりの時間は、毎週土曜日にやってくる。私は休日だが、彼は仕事に出掛けるのだ。

朝、アラームに邪魔されることなく自然と目が覚める瞬間を待つ。
目が覚めると、何のレシピも調べずに冷蔵庫の中身を適当に組み合わせてごはんを作る。誰かに食べてもらう時ならば、「口に合わなくて気を使わせてしまうかもしれない」と心配になり、絶対に出来ない芸当である。
身支度を進め、とびきりのヒールの靴を履く。もし靴擦れして足が痛くなっても、誰かに迷惑を掛けないからだ。
路線図を眺め、目に留まった駅へ向かう。可愛らしい喫茶店を見つけて入る。珈琲を頂きながら、その街で暮らす私と彼を想像する。
よし、帰ったら彼にこのお店を教えよう。

「ひとり」の冒険で想像するのは「ふたり」の日常。それが心地良い

そして彼の帰宅時間を目安に、かつてより少し短い冒険を終えて日常へと帰っていく。

行動自体はかつての「ひとり」とあまり変わらない。
しかし、そこで過ごした時間について、大切な人へ共有したいという気持ちが加わった。これもまた、ひとりの時間に耳を傾けて聞こえてきた、私の本当の気持ちのひとつだ。

今のひとりの時間は、ベースとして「ふたり」の日常があった上での限定的な「ひとり」なのである。
かつてほどの軽やかさは感じない。しかし今の私には、安心感のある日常の中に小さく包まれたひとりの時間こそが心地良いようだ。

様々な経験や時を重ね、ひとりの時間の過ごし方や感じ方は変わっていくのだと思う。
私にとってひとりの時間は、生まれてから最期の日まで、誰よりも長く付き合っていくであろう「私」との時間である。
私が私自身の今の気持ちにそっと耳を傾けて叶える、静かで大切な時間なのだ。