下校途中、木造建築の玄関引き戸の前に繫がれていた犬

灰色の大きな犬だった。
太陽が顔をのぞかせ、大地を照らす役目を終えて沈黙する時間が訪れるまで、彼はいつもそこにいた。
酷く美しい犬だった。とても美しい犬だったと表現したいところだが、私の記憶のなかにいる彼は、いつも物悲しい表情を浮かべていた。
だから私は彼のことを思い出すと、「酷く美しかった」と言いたくなる。これは決められた事柄であり、誰にも覆せない事実と呼ぶべき記憶だった。

私はあの頃、確か十か十一歳だった。小学校からの下校途中、自宅からはほんの数分、走れば数十秒という距離だろう。何の変哲もない木造建築、千本格子の玄関引き戸の前に、鎖で繋がれた犬がいた。
彼は肉厚で大きな身体を地面に横たわらせて、長く柔らかそうな両足を平行に伸ばしていた。行儀よく生えたマズルに繋がれた口元はいつもキュッと固く結んであり、まるで口のなかに隠し持っている牙を見せまいとしているようだった。

私のたくさんの話を黙って聞いてくれた。晴れの日も、雨の日も

私は小学校の帰り道、いつも彼の元に立ち寄った。たった数分のときもあったし、数十分そこにいることもあった。
彼はどうでもよそうに私の姿を見ていたが、不思議と嫌われているとは思わなかった。私は彼の名前すら知らなかった。
でも彼は多分、私の名前を知っていたと思う。何故なら、小学校からなかなか帰らない私を心配して、母が何度か迎えに来たことがあったからだ。確かそのとき、怒ったような安心したような揺れ動く声色で、母が私の名前を呼んだと思う。

私は、彼にたくさんの話をした。苦手な算数の授業のこと、面白かった漫画のこと、同じクラスにいる好きな男の子のこと。
どの話も、彼は表情一つ変えずに黙って聞いていた。灰色の豊かな体毛を触れさせてくれたこともある。見た目はぬいぐるみのように柔らかそうなのに、手に触れるとその背中は芝生のように硬かった。
彼は四六時中そこにいたと思う。晴れの日はもちろんのこと、打ち付けるような雨の日だって、彼はいつもそこにいた。大きな身体をめいっぱい小さくし震えている彼を見て、私はたまらず傘を差し出した。黄色い小さな傘のなかに、大きな犬と自分を押し込んだ。私の赤いランドセルは傘の外に飛び出して、激しい雨に襲われていた。でも、そんなことはどうでも良かった。

傘の中で身体を小さく丸めていたとき、彼は笑った

彼は青い真っ直ぐな瞳で私を見ていた。灰色の豊かな毛は、雨によって冷たく冷え切っている。私はそのとき初めて、彼を哀れだと思った。
沈黙は続いたが何も話す気になれず、ふたりとも傘のなかで身体を小さく丸めていた。
彼は俯く私を見て、何故だがほんの少し笑った。鋭い犬歯が見えた。見間違いではなかったと思う。叫ぶような雨音が傘の表面を打ち付ける。泥まみれになったスニーカーは、靴下まで水が染み込んでいる。でも、彼は笑った。顎骨からだらりと落ちた赤い舌が見えた。
この世のものとは思えないほど、それは酷く美しかった。

あれから数年経ったあと、彼はいつの間にか玄関引き戸の前から姿を消していた。そして二度と私の前に現れることはなかった。

これは私の愚かな願いだが、あえてここに書こうと思う。
名前も知らない、大きくて美しい灰色の犬。どうかもう一度、私の前に現れてほしい。今度こそ、あなたのすべてを包めるような大きな傘を差しだそう。どうか、もう一度だけ、現れてくれないだろうか。もう二度と、あなたをひとりにはしない。