最近、2つめの仕事を辞めた。
大学卒業後に勤めていた会社は人間関係のいざこざで辞めて大学院へ進学、自然農法をライフワークとする人々と出会った。その農園の1日は朝5時に始まり、18時頃まで仕事をして皆で夕食を頂く。休みは月4日まで任意に取る。
体力的にはきつかったが、充実感があった。仕事とプライベートをきっぱり分けるのもよいけれど、生き方としての仕事に従事したいと憧れた。
好きだから残業もいとわないが、職場は持続可能である必要があるはず
修士課程を終えて、自然農法で米や野菜を作っている会社に勤め始めた。4週4休。仕事内容は多岐にわたった。そもそも「百姓」は、細分化された仕事の1つをできればよいというものではなく、多様な生き物、道具、人々の間で自身の生きていることを紡いでいくものだ。生業とはそういうものだろうとは思うけれども、先の農園のように個々の作物にゆっくりと関われるわけではないという現実に、理想との乖離はあった。
会社である以上は年々売り上げを上げていくことが求められる。少なくとも事業として黒字にすべきという目標はある。しかし、農作物の売り上げで人件費を賄うのは難しい。
より選ばれるように美しく袋詰めする、より便利にご利用いただけるよう個別の配達にもできるだけ応じる、より野菜をお楽しみいただけるように宅配用の詰め合わせに添える紙を増やす。もちろん、やらないよりはやったほうが良いことばかりだが、コストがゼロというわけにはいかない。
仕事の効率化を目的とした会議が行われるが、通常の業務のあと、夜10時頃まで続くこともしばしばである。その日も翌日も相変わらず6時半始業だ。
帰りが夜9時を過ぎることは珍しくはないが、残業時間を管理する制度はなかった。勤務時間に応じた支払いを、と主張したいわけではない。皆が好意を持ち寄り、自分のできることで会社を良くしていこうという風土は素晴らしい。そこに残業時間を細かく記録して、誰がどれだけ貢献しているとか、残業代をどれだけ出さねばならないとかを云々するようなことは野暮である。
ただ、社員の好意による奉仕無くしては必要な業務が回らない状況を当然視するようになると、持続可能性という点で問題がある。
遅くまで残ろうとする私に、先輩方は、無理は望んでいないと言った。それは本心だと思う。私も自分が下っ端だから残らなければという義務感ではなく、会社組織としての生を繋ぐためにやるべきことがあるなら、それは構成員皆で担うべきであり、いつも同じ人がしりぬぐいをするのは違うと思ったので、やれることはやりたかった。
個人ではなくチームであるから、全体に対して個々人が責任を負うのであり、その分助け合えるのでなければ釣り合わぬのではないか。
自然に仕えてその恵みを生かすことと、資本主義経済に従うこと
育てている植物への愛があるから、農業を支えてくださるお客さんへの愛があるから、この仕事への誇りと愛があるから働き、金銭には代えがたい喜びを得る。それはこの仕事の本質的な部分であると思う。
何か月も丹精込めて育てた野菜や穀類が、獣や台風、霜、旱魃などによって一夜にしてだめになってしまうこともあり、コロナ禍で販売先がなくなることもある。
それでもそもそも、我々が何かを作っているわけではない。大地と太陽光と水と空気と微生物、植物そのものの力から与えられたものを換金して社会生活の資としている。すべての人間が実はそのように生かされているので、その理不尽と愚直に向き合う生き方を選んだ人たちが集っている。
自分たちには計り知れない、制御できない自然や生命を相手にしているからこそ、金銭という量には変換できない豊かな質に触れることができる。圃場で汗することは、我々が他者を殺さねば生きることのできない身体であるがゆえに、他者が全てなくなれば自らも滅ぶべき身であるがゆえに、他者と共に生きる場を涵養する性質を持つものと信じさせてくれる。
この土と同様に、自らの体内だけ見ても、どれほどの微生物が住んでいることだろうか。しかしその身体がだんだんとぼろぼろになっていくのは恐怖であった。不整脈を生じ、虫歯が急に増え、尿は茶色っぽく、疲れがとれない。希死念慮にとりつかれ、ある時涙が止まらなくなって、ついには退職を決意した。
「身体が資本だから」とよく言われたが、その通りである。自分がその一部である、汲めども尽きぬ自然と生命への好奇心や愛をもって、他者の喜びを自らの喜びとする精神をもって、量的に計られなどしない労働に従事することと、会社という高度資本主義の論理に埋め込まれた組織の生の一部として量的拡大を目指すこととの間で、有限な身体が板挟みになる。
他者への愛と責任を追求し自らを与え尽くす時というのは、死して大地に帰する時に他ならない。生きることが目的で、労働は手段である、という目的と手段を転倒させることは、基本的にはできない。私が生きているから働くことができるのであり、誰かのために働くことや誰かのために生きることは二次的に派生するものだということを前提としなければ、他者のかけがえのなさを慈しむこともできないのではないか。