ブラックな環境で、好きだった仕事がわたしを苦しめるものに

わたしはグラフィックデザイナーである。
新卒で入社した会社は言ってみれば、半ブラックであった。
深夜まで残業まみれで、毎日真っ暗な道を一人帰っていた。終電なんて間に合わず、始発が来るまでバーミヤンに座っていたこともあるし、朝まで会議室で上司に叱られながら仕事をしていたこともある。

しかし、残業より何よりも辛かったのが、厳しい労働環境にイライラして常に怒っている人間たちだった。社内は常にピリピリの空気に満ちており、会社のドアを開ける瞬間は気圧がグッと変わるような気がした。いつも、自分を一枚硬いガードでコーティングしてから足を踏み入れていた。

やがて、好きだったデザインは徐々にわたしを苦しめる存在となり、拒絶の対象にすり替わっていった。
本屋に行っても「デザイン書」や「アート」のコーナーの前は、緊張して通れなかった。「もっと作れ」と責められている気分になるからだ。
自分のスマホのカメラロールに、仕事を思い出すものは一切入れなかった。ふと目にしたとき具合が悪くなるからだ。どんな素敵なポスターも、街中の広告グラフィックも、絶対に写真に撮らなかった。

やってもやっても終わらない業務。世の中の速すぎるサイクル。無限のループ。
新しいものを次々に作らなくてはならない「消費社会」を呪った。
こんな辛い思いをしないとお金を得られない「資本主義」を呪った。

「デザイナーは深夜まで働いて当然だろ」
4年目を迎えたある日、定時を大幅に過ぎて退社しようとした時だった。背中からこの言葉は飛んできた。聞こえるように言ったのだろうか、わたしはついにとどめを刺されたような気持ちになった。会社に蔓延していた、黙認されていた事実が、はっきりと吐露された瞬間だった。
わたしはそのまま会社の扉を出て、エレベーターで一人ゆっくりと下がりながら、からっぽな心のまま、「辞めよう」と思った。
枯渇しかけていた気持ちは、完全に底を突いた。
枯れた葉が枝から落ちるように、それくらい自然に、わたしは会社を辞めた。

仕事に対する恐怖心。「とことん諦めよう」と思った

しばらくしてから、転職活動をするために求人サイトをいくつか巡っていた。寝そべりながらスマホを操作し、試しに「正社員 グラフィックデザイナー」と検索してみる。
しかし、「あなたに企画からデザインをすべておまかせ!」「ディレクターへステップアップ!」「やる気重視!自発性のある方歓迎!」など、流れ込んでくる膨大な情報は、ひどくわたしを混乱させた。
その熱量は今のわたしからはあまりにもかけ離れていて、どの文言もわたしを否定し脅かしているようだったからだ。どれだけ画面をスクロールしても、ただただ、仕事へのハードルの高さと苦痛のイメージが広がるばかりだった。
「またあんな思いをするのか」と、呼吸が苦しくなった。今にも涙が出そうだった。

「あ、わたし、ダメだ……」
仕事に対する恐怖心で、精神的に自分の限界に行き当たっていることに気づいた。今は、働けない、どうしても働けないんだ、そう思った。

わたしは転職活動を中断した。ひとつの挫折だった。

そして、こうなったらとことん諦めよう、そう思った。
自分を守るため、これまでの自分を手放し、いまようやく腰をおろせたこの地べたに、このまま座り込もうと思ったのだった。

そして、必ず定時にあがれる「派遣社員」という働き方を選んだ。
デザイナー職で、出勤は週4日。これが今のわたしが選んだ、力まず、消費せず、自分を守れる働き方だった。
こうしてわたしは、「仕事」とすこし距離をおいて生活することにした。

定時に終わる仕事を選んだ。夕暮れの時間を一人楽しむ

勤務初日は、冬の終わり頃だった。
業務内容はしっかりと管理され、常に無理のない仕事が任された。これまでがあまりにもハードワークだったのか、どの仕事も余裕をもって遂行することができた。
おだやかな一日はあっという間に過ぎ、夕方の5時に定時を迎えた。
周りに挨拶をし、上着をきて会社を出る。
階段を降り外に出て、顔をあげた瞬間、わたしはハッとした。
そこには、真っ赤な夕焼けが広がっていた。
会社の前は開けた地形になっており、空は大きく、突っ立ったわたしの目の前いっぱいに美しいオレンジ色が広がっていた。
一日の中に「夕暮れ」なんていう時間帯があることすら、忘れかけていた。今までは、とっぷり日の暮れた真っ暗の帰り道しか知らなかった。
夕日は人々の頬を照らし、地面に長く伸びた影を作っていた。

家の最寄り駅で電車を降りた後、改札へ向かう人々に取り残されるように一人ホームに残り、ベンチに腰をかけた。
ホームの頭上には、さっきより紫がかった夕日がそれでもまだ美しく広がっている。頬に当たる風は心地よく冷たく、空はキンと光って見えた。
夕暮れの風景には、家路につく人々のどこか安堵した、一日が終わっていく温もりのムードが漂っていた。
わたしは身体の力を抜き、ただただ、その時間を味わった。
そして、まるで「お疲れさま」と言ってくれているようなその空を、わたしは気が済むまで、いつまでもいつまでも眺めていた。