生活に寄り添う海に行くときは、散歩と言う名の「ゴミ拾い」をする

私の最近取り入れている生活スタイル。それは朝5時に起きて夜21時には就寝すること(夜勤もしているのでうまくはいかないのだが……)。
そんな私の生活に寄り添ってくれる場所がある。それは海だ。
最近は、日の出の時刻に合わせて海に出向く。
朝日を浴びながら、ごはんを食べると、太陽からも食べ物からもエネルギーを注入されて1日のやる気がみなぎる。
日没の時間に海にいくのもいい。
波の音を聞きながら、読書をすると時間の流れがゆっくり感じられ、心が落ち着く。
海に行った時、決まって最後には散歩をする。
散歩と言う名の「ゴミ拾い」だ。
ただ、私は自分の1日の運動時間の確保という意味で「散歩」と呼んでいる。
その散歩コースにたまたまゴミが落ちていて、それ拾うだけ。
「ゴミ拾い」が日課です、なんて言うと「ボランティア精神」みたいな印象があるから、私は「散歩」と呼んでいる。
そもそもゴミ拾いに「良いこと」「ボランティア」なんていう印象がなぜつくのだろう。
それは、拾わないことへのあたりまえ化が原因じゃないだろうか。

誰かといるよりも一人のほうが、ありのままに堂々と自分を出せている

その人にとってあたりまえではないことをすると、良くも悪くも目につくものだ。
友達と一緒に街を歩いていても、周りの人が見てみぬふりをすれば自分も見てみぬ振りをする。私は、日本人には周りに合わせすぎるところがあると思う。一緒に歩いている友達が道端の空き缶を見てみぬ振りをすれば、私もスルーだ。自分でも実に悔しい。こういう時、さっと声をあげられる人間になりたいものだ。
私はたぶん、一人のほうが自分をありのままに出せている。人の目はいつもより気にしないし、堂々としていられる気がする。一人の時間というのは自分に向き合う大切な時間なのだ。
しかし、散歩していると目に入るのはゴミばかりではない。
私と同じように散歩している人が、他にも大勢いることがわかる。人だけではない、犬や、鳥なども。
朝の海は静かだけれど、潮が引いた砂浜の足跡たちは、多くの人や動物の訪れを教えてくれる。
足跡の間隔がすごく大きいと「脚の長い人なんだろうな〜羨ましいな」と想像する。
小さな鳥の足跡が、突然消えていると「ここで飛び立ったんだろうな」と考えてみる。
足跡からそこにいない人や動物の想像をするのは、結構楽しい。
これは妄想好きの私ならでは、ひとりの楽しみ方かもしれない。

生活に潤いをくれる海に感謝の気持ちを込めて、少しでもゴミを拾う

夕方の海は水面がキラキラしていて、まるで1日頑張った自分へのカーテンコール。
静かにゆったりと時間が流れる夕方は、紅茶をマイボトルに入れて本を片手にのんびりすごすのがベストの過ごし方。ある程度読み終わったところでそっと本を閉じて、波の音に耳をすませながら今日の私と対話する。
朝よりも人けが多い夕方は、子供連れやペットの散歩だけではなく、若いカップルや老夫婦なんかも、この時間の流れを楽しんでいる。人間観察を楽しみながら、散歩。最後には自分に「お疲れ様」と、再び幕を閉じるのだ。

こうやって海を歩くのは楽しい。でもゴミが落ちているとなんだかちょっと残念な気持ちになる。
明日の散歩をもっと楽しくするために、今日、少しでもゴミを拾って帰る。
私の生活に潤いをくれる海に感謝の気持ちを込めて……。
こうやって、自然と目についたゴミを拾うことを身体に覚えさせるとどうだろう。
友達といても、自分の腕は自然とその道端の空き缶に伸びているのではないだろうか。
そんなことも、ちょっと期待してみる。わたしの一人の時間。