高校生の頃、私にはいわゆる“いつメン”がいた。移動教室や選択科目も常に一緒がいい“いつメン”達。しまいにはいわゆる連れションまで誘ってくれた。一匹狼の私は“いつメン”と何から何まで一緒にする気は微塵もなかった。

周りの結婚ブームで考えた。一匹狼の私は「ひとり」で何ができる?

とある日のホームルームの時間、何が引き金になったのか分からないが、当時アラフォーだった独身女性の担任が「皆さん?いつまで移動教室もトイレも友達と一緒なんですか!吉川さんを見習いなさい!」と一匹狼の私を模範生として名指しした。

褒められているのかけなされているのか不思議な気持ちになったが、今思い返せば、担任の先生自身が自分を肯定するために引き合いに出しやすかったのが“レペゼン・一匹狼(=一匹狼を代表する)”の私だったんだと思える。

25歳、周りが続々と結婚し始める「第一次結婚ブーム」が起きている。
SNSで婚姻届に婚約指輪が添えられた投稿を頻繁に目にするようになり、“レペゼン・一匹狼”の私ですら自分が否定されている気分になり疲弊してしまうことが増えた。

それなら書き出すことで自分を肯定してみようと思う。
私は「ひとり」で何ができる?
ひとり映画にひとり観劇、ひとり焼肉だってお茶の子さいさいだ。
むしろ、それらは全て行く相手がいないわけではなく、自ら好んで「ひとり」で行っている。
映画や観劇を見ても他人と感想を言い合うことに興味はないし、焼肉に行くなら自分のペースで好きな順番に焼きながら食べたい。

私の中の「もうひとり」の私との対話で、「ひとり」を楽しめている

ここまで書き出すと、いささか「ひとり」になることに意地を張っているようにも見えてきて少しばかり恥ずかしささえ感じる。
しかし、この性格は物心ついた時から。
他人に合わせることは得意ではあるが好きではないし、他人に合わせなければいけないとなると自分を消耗してしまうのでその対価さえ欲しくなる。
書きながら強欲な女だなと情けなささえ感じる。

先ほどから読んでいて気付いたと思うが、私の中には「もうひとり」の私がいる。
コイツはなかなかひねくれた奴でネガティブな側面をチクチクと突いてくる。とは言いつつも「もうひとり」の私がいることで常に対話しながら「ひとり」を楽しめていることも事実。

映画や観劇の後に私が推しへの愛情が溢れても「もうひとり」の私が「住む世界が違うんだからそれ以上好きになるのを止めときな」とたしなめてくる。
食いしん坊な私が、幸せを感じながら次から次に焼肉を食べていると、「もうひとり」の私が「どうせ食い過ぎて胃がもたれるオチなんだから」と茶々を入れてくる。

「ひとり」“が”いいのか、それとも「ひとり」“で”いいのか

私は「もうひとり」の自分が放つ性悪な思考のおかげで理性を保てているし、「ひとり」を楽しめているんだと思う。
かつて私を一匹狼の模範生として名指しした担任も、「もうひとり」の自分を心の中で飼っていたんだと思う。そんな中、「もうひとり」の自分ですら味方になってくれないような、自分が否定されている気分になるような出来事が何かしらあったのではないだろうか。

そこで自らを肯定するために打ってつけな私を引き合いに出して、あのような「吉川さんを見習いなさい!」発言があったのかなと、「第一次結婚ブーム」の渦中に巻き込まれる年齢になり、当時の担任に思いを馳せるようになった。

ブームに乗る必要もなければ抗う必要もない。
欲した時にパートナーを見つけて「ふたり」になる選択をすればいい。
「ふたり」になったからと言って何から何まで一緒にする必要もない。
欲した時に「ひとり」になる時間を作ればいい。

自分にも、これを読んでくれてる人にも、はたまた当時の担任にも問いかけたい。
あなたは今「ひとり」“が”いいんですか?それとも「ひとり」“で”いいんですか?
その答えはきっと「もうひとり」の自分が教えてくれるはず。