小学生の頃、私は皆と違う色のランドセルを背負って6年間、学校に通っていた。
10年以上前の田舎町の小学校だったので、ランドセルの色は女の子は赤、男の子は黒というのが定番で、実際、数十名の全校生徒を見渡しても、赤と黒以外のランドセルを使っているのは私だけだった。

入学前に母方の祖母に連れられてランドセルを買いに行った私は、すぐに「これがいい」と一つのランドセルを指さして譲らなかったそうだ。祖母や母は「赤がいいんじゃないの?」と言ったらしいが、私はそれを聞き入れなかった。

結果、ピンクというより肌色に近いような、「サーモンピンク色」のランドセルが私のトレードマークとなってしまった。

サーモンピンクを選んだ私は、ピンクを敬遠するようになっていった

小学校高学年の時、私はピンクなんて全然好きではなかった。サーモンピンクのランドセルだけは何故か「自分で選んでしまったものだから」と割り切っていて、買い替えてほしいなどと思ったことはないが、着るものや持ち物にピンク色を選ぶことはほとんどなかったと思う。

どうしてサーモンピンクのランドセルにこだわったのか全く記憶にないが、小学校に入学する前の私は、いかにも少女らしいその淡いピンク色を「可愛い」と思う感性を持っていたはずなのだ。

それがどうして、ピンクを敬遠するようになっていったのか。
思い返して考えてみると、単なる好みの変化というより、妹の影響によるところが大きかったのではないかと思う。

妹は4歳年下で、私がランドセルを選んだときはまだ2歳か3歳。その時は彼女のことを「赤ちゃん」としか思っていなかった。
でも、妹が成長するにつれて、なんとなく「女の子らしくて可愛いのが妹、クールなのが私」という役割分担のようなものができていった。

お姫様みたいな妹とお雛様みたいな私。妹に持ち続けていた劣等感

幼い頃の妹は丸顔で愛らしい顔立ちをしていた。祖母が妹の顔を見て「お姫様みたい」と言うので「私は?」と聞いてみたら、しばらく考えてから「お雛様みたい。あんたは、べっぴんさん」と言われた。小学生の私にとって、お雛様と言われようがべっぴんさんと言われようがそれは嬉しい言葉ではなく、「私はお姫様という感じではないんだな」ということをその時に自覚した。

また、父は、妹にはロングヘアを許していた一方で、身長が高くて面長な私にはショートヘアが似合うと決めてかかっており、高校を卒業するまでショートヘア以外の髪型にさせてもらえなかった。「伸ばしても変やで」という父の言葉を私は信じ込んでいた(大学に入ってから初めて髪を伸ばしたところ意外と好評で、父にも「なんや、思ったほど悪くないな」と言われた。なんと無責任な、と憤慨したのは当然である)。

私は、「妹はピンクや白、姉の私は青や黒」というようなキャラクターの役割分担を受け入れながらも、女の子らしくてピンクの似合う妹に劣等感を持ち続けてきた。
よく考えたらピンクと黒は相性がいいし、青と白もよく合う。でも何故か、自分の衣服や持ち物に白やピンクを取り入れるという発想は持ったことがなく、「どうせ私は寒色系、女の子らしさは似合わない」と決めてかかって一人でひねくれていたように思う。

なんとなく固定化されたキャラクターから外れてはいけない、外れることはできない、と思っていたのだろうか。
そのせいか、25歳になる今まで、誰からも「女の子らしい」とは言われたことがない。
それは、中高生の時代の私のコンプレックスだった。

役割分担にとらわれていた私へ。好きな色の自分になって堂々と

今の私は、女の子らしさや女子力と言われるものを持っていない自分を受け入れて、劣等感を持たずに生きることができていると思う。ピンクは今も縁の薄い色だけれど、ピンク=女の子、という感覚が全てではないことも知っているし、そもそも女の子らしくいることが良いことだという価値観そのものを克服できた。

私は女子力を磨くことはできなかったけれど、代わりに「オンナ力」とでもいうようなものを手に入れてきた。人間力、と言ってしまえるほどの自信は無いので、とりあえず「女子力」への対抗馬として「オンナ力」と名付けておいた。ふわふわしていなくても、可愛げがなくても必要とされて愛される術はある。ピンクの似合うお姫様のような妹とも充分に張り合える。

似合う色、キャラクター、役割分担。そんなものにとらわれていた昔の私に伝えたい。自分で選んだサーモンピンクも、甘んじて受け入れていた青も黒も、もし望むのであれば、羨んでいたピンクや白だって、全部あなたの色にできるんだよ、好きな色の自分になって堂々としていていいんだよ、と。