友達が欲しい。声を大にして言う。
恥ずかしさもかなぐり捨てて言える。友達が欲しい。
高校時代までは、一人遊びが好きでも、自然と友達ができた
もともと、私はそこまで友達が欲しい、誰かと一緒にいたい、というタイプではありませんでした。小学三年生の頃、二人組を作れと言われたとき、奇数なことを幸いに「余り」に立候補したことを覚えています。小学五年生の間、クラスに友達らしい友達も居らず、休み時間は一人校庭の散歩と日向ぼっこで消費していました。
高校受験のとき、同じ中学からの進学者が他に一人もいない学校学科を選択しました。一人が苦にならない、一人遊びが好きな子どもで、そう自覚もしていました。今でもその部分はあると思います。
けれど、進学や就職を経てより開けた社会に出るようになり、友達のありがたみを痛感しました。私の知っていた友達とは、しょせん学校という枠に守られたものに過ぎなかったと気付いたのです。
高校までの学生時代は、たとえ休み時間を一人読書で過ごそうとも、休みの日に誰とも会わずに遠くに出掛けようとも、学校に行く限り同じ人たちに必ず会いました。
会えば話すし、誘われれば遊びもします。一度の接触は少なくとも、それが積み重なれば、自然と友達になれたのです。反対に言えば、私はそういった環境に頼った友達作りしか知らなかったのです。
大人になった今、能動的に友達を作ることの難しさを知った
時間割の自由な大学や、学校を卒業後の社会に出て、途端に新しい友達を作るのが難しくなりました。私の一人が苦にならないという性質は、裏を返せば非社交的ということでもありましたから。友達になりたいと思って能動的に動くことに要する勇気とエネルギーに、気が遠くなりました。そして行動したからといって、相手が私を友達にしてくれるかもわからないのです。
幸いなことに、学生時代に長い時間をかけて関係を築いた友達らとは、今でも交友が続いています。でもこの関係だって、学校という枠がなくなった今、いつまで続くのかわかりません。結婚や育児で生活が大きく変わることがあるでしょう。仕事で地理的に遠く離れることもあります。死別だって、あり得ます。実際、そういった理由で遠のいてしまった友達もいます。
本当のことを言うと、私に必要なのは、身に付けるべきなのは、心の強さかもしれません。もっと一人でいることを楽しんだり、離れていく友達の変化を応援したりできるような。
けれども私は、友達と過ごすことの暖かさ・楽しさ・ありがたみを知ってしまっています。学生の頃、集団行動に対して一人の方が気楽なのに、と思ったのと同じかそれ以上の強さで、くだらない遊びを一緒にできる友達を欲しています。
職場や社会人サークルで足掻く日々、やっぱり友達が欲しいと叫ぶ
一応、不器用ながらに行動はしているのです。会社の人がハマっているゲームを自分もプレイしてみたり、社会人サークルに参加してみたり。
けれども学校という枠があった頃に比べ、圧倒的にタイミングと運とそしてなによりコミュニケーション力が求められる社会人の友達作りは私にはとても難しくて。毎日のように自然に会って、少しずつ相手のことを知って、自分のことを知ってもらって、ということができないですから。それでも、足掻いています。
学校は、それはもう友達作りに適した環境だったのでしょう。少なくとも、私にとっては。
それが無くなった今、私は友達作りスキル小学一年生の状態で、社会を右往左往しています。大体の場合においてうまくいかなくて、ときどき得るものがあって。その繰り返しです。
後から思い返して笑えるようなことも、話の種になるようなこともいろいろ経験しました。その経験も、長い目で見れば私にとって大切なことではあると思います。けれども、私がいま一番欲しいものはそれではないのです。
なので最後にもう一度、断崖から荒海に叫ぶような心持ちで記します。私は、友達が欲しい。