「慎重に検討した結果、ご希望に添いかねることとなりました」
「今後一層のご活躍をお祈り致します」
「すいちゃんは大変だから私たちだけで卒業旅行に行くね」
世界から価値0の烙印を押され、絶望ロードまっしぐら。5年前、大学4年の時だった。
やりたい仕事を見つけたのに、「なんとかなるでしょ」を発動した私
昔から要領がよく覚えもいい割に爪が甘く、蓋を開けてみるとギリギリ勝ち組の人生。
それが22年の私の人生だった。
いつもどこか本気になれないくせに、負けた時は一丁前に悔しがる無駄なプライドを持ち合わせた私が、大学1年の夏、初めて本気でやりたい仕事に出会った。一時は、その仕事に就いた際に有利になる資格の勉強を試みてみるも難易度が高すぎて挫折。そしてこの時、まだ大学1年だし、という気持ちに負け、必殺「なんとかなるでしょ」を発動してしまった。
そうしてなんだかんだ授業や研究で慌ただしく過ごしているうちにいつの間にか大学4年目前、「あれ、なんも準備してなくない?」とようやく気づく。
だが時すでに遅し、数年かけて培ったダイヤモンド装備の学生と、木の棒で戦う裸の私では勝敗は歴然。運よく第一志望の企業は役員面接まで進むも、敗退。回復力のない大量のお祈りメールと共に、私の夢は散ってしまったのであった。
それ相応の行動がないと特別にはなれない。大学院で再度就活を決意
当時仲のよかった友人らはどこかしらの企業から内定をもらい、宙ぶらりんの私の扱いに困ったのか、卒業旅行の話が出始めた4年の秋以降、疎遠になった。
友達がダメなら彼氏、ということで次は当時の彼氏に家に入り浸り依存した。彼氏は家に置かせてはくれたものの、優しくはなかった。
大学にも行かない、進路も決まってない、誰にも愛されない、宇宙において価値0の自分が大嫌いだった。正直当時はあまりにもきつすぎて、半分うつ状態だったこともあり記憶が断片的だが、こうなってもまだ、自分は「特別な何かになれる」と信じて疑わなかった。
ただ同時に、それ相応の行動がないと特別にはなれないことも悟ったのであった。その後、親に頭を下げ、大学院で再度就活にチャレンジすることで腹を括った。
2回目の就活は、大学院入学後から入念に準備を行った。
本命業界リサーチはもちろんのこと第一志望の企業については過去5年分のプレスリリース全てに目を通し動向を把握、企業理解に努めた。学部生時代に挫折した資格を取得、業務への関心意欲度を示した。他にも、他業種のインターンや選考に赴き自分の引き出しを増やすことで斬新なアイデアをネタとしてストックした。
結果、10数社受けた中でお祈りメールは1通のみ。最終的にどちらに入社しても満足する2社から内定を頂いた。他企業は面接日程上都合がつかず、私から辞退メールを送った。
あの冬、私は22年間の人生観を捨て、全く別の人間になったのだった。
あの経験以降、私は自分の人生が満足だと一度たりとも思えていない
現在私は憧れだった企業で、したかった仕事をしている。もちろん苦労もあるが幸せだ。
一方で、当時憧れていた自分になれているにも関わらず、あの経験以降現在に至るまで私は自分の人生が満足だと一度たりとも思えていない。
誰からも必要とされない恐怖が、いつまでも体に染み付いたままなのだ。その恐怖は私の中に眠る向上心を駆り立て、常に何かに挑戦しないと落ち着かない自分へと変えてしまった。
あの経験がなければ私は今もぬるい人生をそれなりに生きていただけで、それに比べたらもちろん今の方がいいに決まっている。だがあの恐怖から脱却し、真に私が満足する未来というのはまだ先にある気がしてならない。
今はただその未来を探して走り続ける、綺麗でもなんでもないそれが私が手にした世界なのである。