今、私は私が生きていてもいいんだと認められたい。そして、生きる居場所を見つけたい。それが働く理由。
私はアルバイトができる年齢になって以降、働くことを義務にしたくないしされたくないと思っていた。その理由は目覚ましのアラームに好きな音楽を設定すると何年経っても条件反射で嫌な気持ちを掻き立てられるのと同じ。働くことが義務になれば好きが嫌いになってしまうから。

就活で衝撃を受けた。全ての仕事が魅力的に見えてキラキラしていた

けれど世間は世知辛く、高校生の時から働いていないと「バイトしないの?」「いつ働くの?」と働くことを当たり前として急かす。
「あーうるさ、やだやだ」とそんなことを思いながら学生時代を過ごした。

そんな鬱々とした気持ちを抱え、就活情報サイトや自治体主催の合同企業説明会の1つに足を運んだ大学3年生の冬、私は「えっ!?知らなかっただけで私が生きている世界にはこんんんんんなに沢山のお仕事があるの!?!こんなに仕事があるなら全部魅力的に見えるし全部経験したくなるじゃん!!人生1回じゃ時間が足りないくらいだよ!」と衝撃を受けた。
全ての仕事が魅力的に見えてキラキラしていた。こんなに魅力が溢れる職場で働いたら絶対楽しい!って思っていた。

自信が皆無で褒められても嬉しいが信じることはできない私も、就職したら仕事が1つ1つできるようになって自信がついて、働くって楽しいな!生きるのって楽しい!と思えるような人間になれるかも!だから働きたい!と思うようになった。

ほとんどが面接まで行かず、お祈りメールが受信ボックスを埋めた

けど、現実はそう上手くは行かなかった。私は就職するどころか就職活動そのものに躓いた。
絶対楽しい!働きたい!ってキラキラした思いのままに、何社もエントリーをし、何社も志望動機を書いた。しかしそのほとんどの企業が面接まで行かず、お祈りメールだけが受信ボックスを埋めつくした。面接までこぎつけたのは両手で数えられる程度だった。

大学4年生の11月時点で内定は0。猛暑の中多汗症でリクルートスーツを汚すまいと気を付けていた日は、いつの間にか肌寒く感じられる季節になっていた。普段はヒールのある靴を全く履かない私は就職活動の時だけパンプスを履く。履く度にできる靴擦れの傷を庇う歩き方をするとまた新たな靴擦れができた。それと同じように私の心も限界だった。どうして?私は働きたいと思う権利すらないの?もう絶望だった。それでも、新たな企業説明会や面接の度に「上手くいくといいね。大丈夫だから!」と送り出してくれる親がいる。足を止められるわけがなかった。

12月、やっと1社の内定が貰えた。内定の電話は夕食時にきた。安堵だった。思わず泣いてしまった。

キラキラしてみえたものを手にして生きるのは、すごく難しい

やっと内定を貰って入社した4月。どきどきわくわくしかなかった。けれども、入社して3週間で責任者の上司が失踪し、新入社員だけで支社を運用させられるという斬新なブラック会社で、更に同期からのいじめなど様々な出来事があり、私は2ヶ月足らずで鬱になってしまった。家で仕事に関係するものを見るだけで涙が溢れるようになり、出社は不可能だった。そして6月に休職、7月には自主退職という名のクビになった。社内のグループLINEも知らぬ間に強制退会をさせられていた。同期に連絡をしても返信がくることは無かった。

退職後、鬱は治療から4ヶ月ほどで完治した。けど、鬱になった複数ある要因の一つの発達障害と双極性障害という精神疾患が社会復帰を妨げた。私は思った。就職活動が始まった時あんなにキラキラしてみえたものを手にして生きるというのは、すごく難しいことなのだと。

私たちはただ呼吸をして生きるだけで食費・光熱費・家賃とお金がかかる。そのお金を払うために働く、そしてまた生きる。むしろ働いてお金をもてなかったら生きることがままならない。生きることは実は難しい。働くことはもっともっと難しい。けれど、働くことができないと生きている感覚が薄れていく。所属している社会環境がないと存在意義が見いだせなくなる。自分は必要とされない、居なくても支障がないと気付いてしまうと虚しさで溢れる。

毎日家にいて、喋る相手も家族とそして医師だけになる。しばらく雨がつづく、電車が運休になったらしい、そんな社会の出来事からも遠ざかる。

だから私は働きたい。自分は生きていていいと存在を認められるようになるように。