愛ってなんだろう。
親と子で生まれるもの、お付き合いする中で育むもの、他人に対して想うこと。
きっと人それぞれ、意味合いは異なってくるだろう。
私にとって愛は、不変的なものだと思っている。
それは関わる中で生まれ、育まれ、不変的なものに変わっていくことで、親子の愛とはまた違うものを求めていた。
3歳下の後輩に一目惚れ。同じサークルの彼と付き合って2年が経つ
私がそれまでお付き合いしてきた人は、20歳上だったり、同じ歳だったり、あとは遊んだ人ばかり。
当時は「これが愛だ」と思っていた。でも、多分どれもホンモノじゃなかった。
今の彼と日々を過ごし始めて、本物の愛を知ったから、そう思える。
彼は3歳下の後輩で、同じサークルで知り合った。私の一目惚れだった。
見た目も性格も理想そのもので、最初の印象からあまり変わらず、もう付き合って2年が経つ。
付き合い始めたとき、コロナ禍によって制限はあったが、一緒に色々なところへ行った。
お互いお金はないので、2人で出来る贅沢の範囲だが、ハンバーガーやイタリアン、米からパンまで、色んなものを食べてきた。
一緒にご飯を食べるとき、「これ食べてみて」と言う自分がいることに気づいた。
自分が美味しいと感じたものを、彼と共有したくて無意識に出てきた言葉だった。
これは、私にとって衝撃的なことだった。
ひとりっ子で自我が強い私。彼と「美味しい」を共有したい
私はひとりっ子で、親戚も年上しかいないので、自分で言うのもアレだが自我が強い。
欲しいものは欲しいし、小さい頃は「今度ね」という言葉がキライだった。
ただ、食事のときは好きなものを最後に残しておくほうだった。
美味しいとわかっているものを、最後に食べて気持ちよく終わりたかったのだ。
もともと食が細いので、食べる量が少ないし、自分が食べられるものをきっちり綺麗に自分の思った通りに食べたいタイプだったと思う。
だからこそ、無意識に食の共有を求める自分に驚いたのだ。
お腹がいっぱいで食べてほしいわけでもなく、ただ美味しいを共有したいから渡すということに。
でも、そのときに気づいた。
自分が美味しいと思ったものを相手に渡し、相手も「美味しい」と思い共有し、それを自分が幸せと思うとき。
これが愛なのではないか、と。
無条件に愛を注いでも信じられる彼との出会い。本物の愛を知った
昔から、親は子に対して「食べなさい」と言い、美味しそうに食べている子を見て幸せを感じるということは知っていた。
それが無条件の愛。
私は彼に対して無意識にしていたのだ。
過去に付き合ってきた人たちとも、同じようなことはあったかもしれないが、そこに本当の愛はなかった気がする。
自分が大人になったからなのか、彼と一緒にいて変わったからなのか。
どれもわからないが、今の自分と彼との話だからこそ、愛に気づけたのだと思いたい。
冒頭で愛について語ったが、きっと私は変わらず愛を注げる相手が欲しかったのだ。
無条件に愛を注いでも信じられる相手が。
だから、私はこれからも美味しいものを食べたとき彼にも共有したいし、それを繰り返していった先に2人の幸せがあると知っている。