「与えられた愛は信じても良いのですか?何を信じていけば良いかわからない」
私のオリジナル曲『私嫌い』の歌詞の一部だ。丁度、サビにあたるあたり。
私はシンガーソングライター。
私がいちばん欲しいものは、信じることができる愛情だ。信じることができない愛情は要らない。
他人からの愛情を信じられない。「また」裏切られそうだから
愛情と言っても、私が欲しいものは、恋愛に於ける愛情だけではない。
パートナーがいない私にとって、パートナーが要らないわけではないが。
親や友達からの愛情、はたまた私を応援してくださるファンの方々からの愛情、それら全てに共通して言うことができる。
私は他人からの愛情を、なかなか上手く受け取ることができない。見せかけなだけではないだろうかと疑ってしまう。
私自身は、推しに愛情を注ぐことができる。恋愛感情として好きな人がいたこともあった。友達に対しての愛情もある。
私から相手に対し愛情を注ぐことができても、他人からの愛情は注がれてしまうと困り果ててしまい悩んでしまう。なぜ悩むのか、その愛情を信じて良いのかわからなくなるからだ。
信用していても、裏切られるんじゃないかという恐怖がある。そして自分がまた傷つくんじゃないかと。
「また」、そう「また」だ。
「父だった人」からのDVで、「愛してる」の言葉が信じられなくなった
発端は、幼い頃だろう。
父だった人に子供の私は愛情を注がれていた。今となってはそれが愛情かはわからない。
何か悪いことをすれば、「家に火をつけるぞ」と脅されていた。痕が残りそうなほど手をつねってきた。
テレビドラマなどで見る、殴られたり蹴られたり、言葉の暴力だって、どこの家も当たり前に起こっていることだと信じていた。それが愛情だと変に勘違いしていた。暴力は愛情だと勘違いしていた私がいた。
しかし、中学時代の友達に「それはDVだよ!大丈夫?」と教えてもらった。
DVがより問題視される時代ではあったが、DVがどのようなものか私はわかりもしなかった。私がDVなどにあっていることを、その時の友達の発言で知ったのだ。
そのあとから、父親だった人の仕打ちがエスカレートし、父だった人のことが信用できなくなった。何かと私を利用することもあった。
結果、両親は離婚。それから10年以上経った後も、住所を教えていないのに「愛してる」と書かれた手紙が送られて来たのだ。
どの口が言うか。
その「愛してる」の文字は文字でしかなかった。信用できる「愛してる」ではなかった。
私は一生父だった人の顔を見たくなければ、関わりたくもない。存在すら認識したくない。
私は一生幸せになんかなれない、その人と関わったら。そう思ってしまう人間だ。
これからの人生で、信じることのできる愛情を受け取りたい
私の傷は内傷となって今も残っている。
だから、私は信じることができる愛情が欲しい。裏切られるような愛情は要らない。
期待するから裏切られた時に傷つく、とも言うが、それでは人自体を信じられなくなりそうで怖い。
人生様々な人間関係がある。今後今関わっている人とどのようになるかなんてわからない。どのように新しい人と出会うかということもわからない。
信じたいと思うことができる人に出会いたい。「愛している」なんて言葉を言われなくても良いから。
愛情にはいろんな形がある。恋愛だけではない。友達から、家族から、様々な人から受け取ることがあるだろう。
その愛情を温めたいし、信じたい。