正解のレールに乗り続けることが「正解」なのだと思いこんでいた
わからないことだらけの世の中。家庭を持ったらマイホームを持つのが当たり前だし、子どもがいるならファミリーカーがおすすめ!わからないことはネットで検索すればそれっぽい答えが簡単に見つかって、私たちはいつからか正解を選ばないといけなくなってしまっているように感じる。
義務教育の間は◯×ゲームで正しい答えを示すことが重要だった。大学生になると授業は自分で選択しなければいけなくなり、就職先も、卒業後どのようにして生きていくかも十人十色。正解がなくて、でも成功している人の辿った道を真似することが社会的に正しいとされている。失敗は避けて通りたいし、いつも自分が正解のレールから逸れていないか心配して生きていた。
恵まれた環境で育ったと、よく言われる。三人姉妹の末っ子で、甘やかされて育ち、大学へも進学させてもらった。学費も下宿代も生活費も、全て両親に払ってもらった。姉たちが大学院へ進学したため、両親は私にも同じように進学することを望み、私は親の希望を汲んで進学を選択。これが鬱の始まりだった。
意志と反した生活に心が苦しくなる。大学院を除籍し、恋人の元へ
本当は自分は進学なんて全然したくなくて、県外へ就職が決まった恋人と一緒に暮らしていきたかった。友人や先輩に支えてもらいながら嫌々大学院生を数ヶ月続けたが、だんだん夜眠れなくなる。寝なきゃ寝なきゃと思うほど目は冴えて、日が昇ってからようやく就寝。そうして授業に行けなくなり、研究を進めるために学校へ行くこともできなくなった。
学校へ行かなきゃと思えば思うほど、ご飯が食べられなくなり、思考が停止。みんなができていることができない自分を責めながら、そんな自分が生きている事を間違いだと感じる時間が流れていった。
結局私の大学院生活は半年で幕を閉じ、就職することもなく恋人のところへ転がり込んで、そのまま結婚。出産。子育て。
子育てをするうちに不眠は改善し、鬱はふとした瞬間に顔を出してくるが、死にたいと考えることは減った。大学院を除籍することを決めた際、両親と揉めたが時間と子どもが関係を改善してくれた。
自分がやりたいことって、なんだろう?思考を巡らせながら生きていく
「あのとき、ああすればよかったんだ。選択を誤った」って、未だに考えてしまうことがある。
じゃあ今の自分が考える最善の選択は、果たして正解なのだろうか。問いが与えられ、正解を返すやりとりしかしたことのない私には、正解のない生活がたまに不安になる。
専業主婦じゃだめ?と思い、アルバイトをしてみた。大学卒なんだから正社員で働かなきゃ!と思い、アルバイトから事務職へ転職した。どれも自分がやりたいことではなく、社会の正解を辿っただけだった。結局、私はまた鬱になった。
鬱は不正解ではないけれど、困ることが元気な人より増えて少しだけ大変。でも、誰しもなりうる現象だから、病気と捉えないように気をつけている。
鬱でも働いている人はいるし、鬱でも夢を叶えている人だっている。元気だからって、やりたいことができるわけじゃないし。
子どもがいるから諦めないといけない、なんてこともない。年齢も関係ない。そもそも自分がやりたいことって一体何なんだろう。
そんなふうにぐるぐると、思考の沼でひとり立ち尽くしながら、私は今日も正解を求める。人生に正解なんてないのにね。仮に「人生の選択最善例集」が与えられたとして、自分はそれを享受するのだろうか。あるのなら欲しいかもしれない。でもその通りに行動するかはわからない。だってそれが生きるということなのだから。
悶々と考え続けながら、少しずつ歳をとっていく。気づいた頃にはシワシワのおばあちゃんになっているかもしれないけれど、その頃には正解探しをやめられているといいな。