物欲があまりない自分。でも大切な物には大切な記憶があるはず

昔から欲しい物、物欲があまりなかった。その割には、荷物が多くてその荷物がなくなってしまうと、よくへこんだ。
値段より、一緒にいた、私の手元にあった時間の方がずっと価値がある気がして、大切な物を大切にしたかったのだと思う。だから、必要な物をしっかり厳選したくて、それ自体が面倒になってしまう事も多い。
質素倹約といえば聞こえはいいが、そんな経験を繰り返すうち、私は欲しい物を探す能力、選択する能力をどこかになくしてしまったように思う。

大切な物には大切な記憶があるから大切にしたい。でも、私が覚えていないだけで、欲しい物を譲れなかった出来事が私にもあるらしい。
それは、布製のいびつなボールだ。今でも家の中のどこかにあって、たまに出てくるそんな子供向けのおもちゃを、小さな時の私は旅行先の売店で離さなかった。

手放さなかったいびつなボール。それは両親の記憶に残っていた

旅行先で、これにはもう出会えないかもしれない、そう思うと買うかどうか迷うことは今でもある。でも、大人の私は心のどこかに基準があって、欲しいものと買うかどうかは迷っている間も既に決まっているように思う。
迷うのは、諦めるまでに必要な時間なのだ。

でも、その時の幼い私は、いびつなボールを手放さなくて、父親に綺麗な形の同じボールを勧められても、頑なにそのいびつなボールを譲らなかったらしい。ふと出てきたいびつなボールを見て、父は私にそんな話をしてくれた事がある。
自分では覚えていない出来事なので、その時にどんな気持ちだったのか、いびつなボールの何に魅かれたのかは分からないし、私の知らない私の話は少しだけ照れくさかった。

確かな事はその話が無ければそのボールに目を留める事もなかったという事だ。
その時から、私にとっていびつなボールは、再び私の大切にしたい物になった。

私には分からなくて覚えていない出来事だけど、確かにボールは存在していて、両親の記憶には残っている。それは、きっとそんな出来事があった証拠なのだろう。
そんな風に、私が覚えていない、知らない私は、今の私にも当然つながっている。あのボールは小さなきっかけだった。

両親や祖父母の思い出を聞きたい。あのボールのようなきっかけが欲しい

両親も祖父母も私も知らない私を知っている。それはそれぞれの立場から私を見守ってくれていた一つの証なのだ。

そのことに気づくことができた私は、今、彼らの思い出を聞きたいと思う。
メールや手紙、電話、私の思いを伝える手段はたくさんあるけれど、今では実際に連絡する事はほとんどないし、どこか照れくさくて聞きにくい。だから、あのボールみたいなきっかけが欲しい。お互いに忘れてしまっている事を思い出せる細やかなきっかけが。

大切な物はずっと私のそばに居てくれる事が多いけど、大切な人がそうとは限らない。
理由なく疎遠になってしまったり、喧嘩別れになってしまったり、いつかどれほど願っても聞けなくなる時が来る。

母親は私と同じように悩んだのだろうか、父親は私をどう見ていたのだろう。
聞けなくなったその時に、聞き逃した事が少しでも少なくなるように、たくさん話したい。ちょっとだけ恥ずかしくて、いつかいつかと先延ばしにしてしまうけど、そんな話を始めるきっかけを欲している。