「ま、いいか。どうせ、ないならないでなんとかなる」
とは、わたしの口癖である。
食事や体験に対して使うお金なら、まだ抵抗は少ない。ただ、物を購入するとなると途端に腰が重くなる。
ヘアゴムがなければ輪ゴムで代用すればいい。裁ちばさみがないならキッチンばさみで十分だ。日用品でさえこの有様だから、衣類や装飾品を買い足すとなると心理的なハードルは更に上がる。
お金に余裕があるかどうかはあまり関係がない。単純に、お金を使う行為全般が苦手なのだ。

自分だけ交換会に呼ばれなかった失意の底で、物欲を飼いならし始めた

子供の頃は人並みに物欲があったように思う。
当時、わたしや友人たちはとあるアニメに夢中で、半ば使命感に突き動かされるようにトレーディングカードを集めていた。開封する瞬間は「今日こそ新しいカードに出会えるのでは」と期待で胸が踊ったし、少しずつ埋まっていくカードホルダーは達成感をもたらしてくれた。
しかしあるときを境に、わたしはカード集めをすっかり辞めてしまった。きっかけは、ある日のカードの交換会にわたしだけが呼ばれていなかったらしい、と知ったこと。
よく聞けば意地悪で爪弾きにされた訳ではなかったのだが、それでもやはり落ち込んだ。
あどけない失意の底で、わたしはふと、ほのくらい気づきを得てしまう。
「そうか。カードを集めたい、なんて最初から思わなければよかったんだ」

考えてみれば、メーカーの生産工場に行けば、集めるまでもなく全種類のカードが揃っているのだ。カード集めの過程で得られる高揚感だって、あくまで一時的なもの。一喜一憂していた自分がなんだか滑稽にすら思えてくる。

ちょうどその頃、件のアニメのイベントが東京で開催されることを知った。
行きたい!と思ったけれど、当時のわたしは雪深い東北に暮らす小学生だ。交通費だけでも一体いくらかかることやら。
ならば発想を変えてみよう。わたしが行かなければその分、別の誰かがチケットを買えるのだ。その誰かがわたしの分まで楽しんでくれたら、それで十分じゃないか。
どうせ、手に入らないのなら、最初から期待しない方がいい。
仮に手に入ったとて、いつかは失ってしまうのだし。

こうしてわたしは物欲を飼い慣らすのが上手くなった。
我ながら、ちょっと上手くなり過ぎてしまったかな、と思うほどに。

「ないならないでなんとかなる」が通用しない、転職活動用のスーツ

そんなわたしが珍しく「いい買い物をしたな」とほくほくする出来事があった。
オーダーメイドスーツを仕立ててもらったのだ。
大手衣料品チェーン店が展開する比較的リーズナブルなコースで、お値段は3万円ほど。お店できちんと採寸してもらえるほか、スーツの型、生地の素材や色や質感、ボタンの有無や数など、かなり細かく選ばせてもらえた。

それまでは既製品のスーツを使っていた。
ただ、就職活動の際の陰鬱な思い出とも相まって、正直、スーツスタイルに対してあまり良い印象がない。
没個性を標榜するかのようなのっぺりと暗い質感。ごわごわとして動き辛く、常に息苦しさと隣り合わせ。なぜ付いているのか分からない飾りポケットの上のピロピロ(フラップというらしい)。買い替えても買い替えても伝線するストッキング。容赦なく靴擦れするパンプス。ビル風から体温を守ってくれないトレンチコート。重たいばかりで物が入らぬビジネスバッグ……。ああダメだ、勘弁してくれ。
しかし、わたしが転職活動をするに当たって、どうあってもスーツからは逃げられなかった。お得意の「ないならないでなんとかなる」も、今回ばかりは通用しない。

苦痛になるはずのオーダー作業は、予想に反して楽しいものに

一度目に店を訪れたときはどうしても決心が付かず、「また来ます」と呟いて逃げるように退店した。
しかし間を置かずに二度目の来店を果たすと、わたしは切々と訴えた。
「ごめんなさい、実はスーツがとても苦手なんです。でも必要なのは分かっています。だからどうしてもラクになりたくて」
平日の朝ということもあって、幸いにもお客はわたしひとりだけ。衣料品フロアの明るさには似つかわしくない、どこか悲壮感すら漂う告白を、女性の店員さんは静かに受け止めてくれた。
「スーツが合わないと辛いですよね。来て頂いてありがとうございます。一緒に選んでいきましょう」

こうしてオーダー作業が始まった。
なにせ必要に迫られてやむなく駆け込んだのだ。決してお安くはない金額で、本心では欲しくない物を買う。店員さんには本当に申し訳ないけれど、きっとわたしにとっては苦痛な時間になることだろう……。
そんな予想に反して、オーダー作業はとても、とても楽しいものだった。

型は思い切って、憧れのパンツスタイルにした。「あなたはスカートの方が似合うのに」と、ここにはいない誰かの声が聞こえた気がしたけれど、あえて知らんぷりをした。
生地もじっくり選んだ。同じポリエステルでも、わたしの苦手なつるりと冷たい手触りのものは避けて、温かく柔らかいものを。
色はシンプルに紺。あのリクルートスーツの墨を流したような色ではない、納得できる紺だ。
ポケットは飾りではなく、全て使えるポケットに。どうだ、ペンも手帳もスマホもICカードも入れ放題だ。

どうせ買うなら楽しんで納得のいくものを。お金の使い方が身についた

不意に、店員さんが自身の片腕をとんとん、と指し示した。やはり自社のオーダー製だという彼女のジャケットの袖は、七分ほどの丈に捲ってある。
「これね、こうやって腕捲りができるんです。飾りじゃなくて本当のボタンですから」
「えっ」
そういえば、と売り場を見回して初めて気が付いた。既製品の袖にお行儀よく並んだボタンは、ほとんどが直に縫い付けられただけの飾りボタンだった。
そうか、わたしはいままで袖すら捲らせてもらえていなかったのか。

後日、完成したオーダースーツを受け取るとき、わたしはこれまでにない清々しさを覚えていた。

後でがっかりしないで済むように、どうせ、どうせ……で予防線を張って、期待を捨てることが大得意だ。
けれど、なにもそれが全てではない。どうせ買うのなら楽しんで、どうせなら納得のいくものを。そんなお金の使い方が身に付いたなら、人生はもっと豊かになるだろう。
というわけで、いつか着られなくなるその日が来るまで、わたしはこのスーツを着て歩こうと思う。
胸を張って、颯爽と、思いっきり腕捲りをして。