私の「ひとり」の楽しみ方、というより私のひとりで自分を救う方法は、小学生から中学生までは読書で、高校生から今に至るまでは散歩だ。
どちらも私を暗くて息をするのも辛い世界から優しい冷たさで私を包み、酸素を吸って吐けば、まだ私は生きられるのだと私に思い出させてくれた。

逃げ込むようになった図書館。本の世界に私を傷つける子はいなかった

まず読書から話そう。
読書は幼いころからしているし、今もしている。けれど、読書に一番のめり込んでいたのは小学3年生から中学生の頃だった。
私は小学3年生までは、元気だった。元気すぎた。誰彼かまわず嬉しくなったら抱きつくし、むかついたら怒って暴れた。でも、それでうまくいっていたのは小学校2年生までだった。

小学校3年生になったら、周りは私を冷めた目で見るようになり、相手をしてくれなくなった。そして私は人の顔色を伺うようなおどおどした人間になり、優しくない子供らのグループに入ってへこへこして結局仲間外れにされた。

休み時間は図書館に逃げ込むようになった。何かしている人にならなければならなかった。決して休み時間に悲しそうな顔をして何もしていない人になってはいけなかった。
現実を忘れるために私は本の世界に逃げ込んだ。そこには私を傷つける子供はいなくて、美しくて儚い世界、はらはらどきどきする世界、ヒーローになれる世界が広がっていた。

読んでいた本でうっすらと思い出せるのは「かいぞくぽけっと」「ウサギのくれたバレエシューズ」「時計坂の家」「ブンダバーシリーズ」だった気がする。休み時間の図書館は基本的に意地悪でうるさい子供はあまり本を借りにこなくて、たまにざわざわしてやがて静かになり、緑の木漏れ日が窓から柔らかくさしこんでいた。
その光と影を私は見つめながら、いつまでこの生活は続くのだろうと思っていた。何度も季節を繰り返し、私は体だけが大きくなり、いつの間にか中学生になっていた。

勉強ばかりの高校生活のなかで、自分を落ち着かせることができた散歩

高校生になった私は、人とうまく付き合えないコンプレックスから、いい大学にいくことに固執していた。友達は一人いたが、勉強ばかりを優先していたので、当時はそれほど仲よくなかった。
毎日予備校に通い、部活は文芸同好会という小説を書く部活の幽霊部員をしていた。勉強に力を入れていたので、あまり読書をしなくなった。たまにはしていたが。勉強しかしないような孤独な高校生活の中で、冷静に自分を落ち着かせることができたのは散歩だった。
私は部活もろくにせず、人間関係から逃げて勉強の鬼になっていて、なおかつ大して勉強ができない自分を毎日責めていた。

もうだめだと思った時にふらっと外を歩く。すると問題は解決しないが、膿をとりだしたように少し気分がすっきりする。
ある文化祭の日、友達が一人いたが、たった一人の友達も他に付き合いがあるし、仕事もある。私は前夜祭か何かで周りが友達と奇声を上げている中一人で軽音の演奏を聞いているのがいたたまれなくなり、文化祭をさぼって家に帰ることにした。

冷たく静かに楽しめる。読書と散歩のおかげで私は生かされてきた

土日だったのか家には母がいた。そして怒られた。私はどうしようもない自分に絶望しながら山に向かって泣きながら一人で散歩した。
橋の上に差し掛かった。欄干につかまってはるか下の濃い緑の川を眺めた。川はゆっくりと流れていた。
そこからさらに山に進み、来たことのない道にでた。このままどこかへ行ってしまおうかとふと思った。畑で老人が農作業をしていたり、古びた家がぽつぽつと見えたりした。

夕焼けが始まり、静かに闇が辺りを包み始めた。今日も一日が終わるのだなと私は思った。そして帰るか、と思った。それから大人になった今になるまで私は散歩によってマシな気分になり、仕方ないまた生きてやるかと思うのだった。
読書と散歩を精神安定剤みたいに語っているが、もちろんそうだが、私は確かにそれらを冷たく静かに楽しんでいた。この二つに生かされていたので、私は宝物に思っている。