とてつもなく壮大で幻想的な世界。この本こそが私をつくった

好きな本を3冊選べと言われたら、私は次の本を選ぶ。
ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』、ポーリーヌ・レアージュ『O嬢の物語』。
そして、その中からさらに1つだけ、1篇の言葉だけを選ぶとしたら、それは、ボルヘスの「バベルの図書館」のこの言葉だ。以下に引用する。

「(他のものたちは図書館と呼んでいるが)宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。」

文字の順列組み合わせで書かれた無数の書物が収められた図書館、そこには理論上、すべての本が存在する。
その完全性ゆえに、一人の人間=司書が一生の間に意味のある文章を読むことはほとんどない。順列組み合わせで出来上がった無意味な文字列が並ぶ本が収められた無数の書架が並ぶ無数の部屋で構成された無限の図書館=宇宙。
そのとてつもなく壮大で幻想的な世界に魅せられた。
この本こそが、今の私をつくったと言っても過言ではない。

精妙に計算され、美しく幻想的な世界は、私の逃げ場になった

親戚一同が集まる新年会。食べるものも食べて皆がまったりしている広間の隅っこで、久しぶりに『伝奇集』を読んでいるところを小学生になったばかりの甥に発見される。
「いおちゃんは昔っから本ばっかり読んでたから頭おかしくなったんだ」
両親や妹が「そうだそうだ」としきりにうなずく中、「まったくそうだよなあ」と自分でも思った。

『伝奇集』。美しく幻想的な物語がおさまった短篇集。この本に出会って、本好きの私は生まれた。中でも好きなのが冒頭でも紹介した「バベルの図書館」だ。
全ての本が存在する図書館。その圧倒的スケールに慄き、そして魅了された。
小学2年生の夏の夜である。以来、私は1日1冊以上の本を読み、自他共に認める本好きになった。

本。それはいじめられっ子で両親から見向きもされない私にとって、格好の逃げ場になった。精妙に計算され、美しく作り上げられた幻想の世界。リアリティはあってもリアルではない。架空の世界で生きる人々の人生を垣間見る。

そんな子供だったから、自覚なしに知識量が増えたのだと思う。それは良いことだと思っているけれど、周りからより孤立する理由にもなった。
「変わってる」「言葉遣いが変」。そうやって排除され、居心地の悪い現実から逃げるように、私はますます本の世界にのめり込んだ。

逃避の手段だった読書を、私はいつのまにか好きになれていた

逃避。これこそが本を読む理由になっていた。本がなければ、醜悪でつらい現実を直視して生きるしかない。それが嫌だから、私はどんなに熱が出ても気分が乗らなくても何かしらの本を読んだ。本があるから、かろうじて私は生き延びられている。

初めて本を読まなかったのは、精神病院に入院した日である。本がなかったので読めなかった。解放された、とある意味思った。もう読まなくていい。それだけ疲れていたのかもしれない。

でも、数日経って、私はまた活字を渇望するようになってしまった。
なぜだろう。病室には何もなく、考えることくらいでしか暇が潰せなかったので、自分が本を読む理由を考えた。
考えるまでもなく、現実逃避のためだとまず思った。現実を見るのが嫌だから、現実ではない世界を見る手段としてフィクションを読む。
では嫌になっても読み続けた理由は?続けてきたことをやめるのが嫌だったから?

そのとき、主治医の先生がみえて、分厚い本を差し入れてくれた。たくさんの短篇が収録された本だった。受け取ったとき、泣きそうなくらい嬉しかった。表紙を開き目次が目に入った瞬間から、鼓動が高鳴るのがわかった。
これこそ私が求めていたものだった。目次を捲って、1話目を読む。ああ、幸せだと思う。
つまり、私は逃避の手段としての読書を、いつの間にか好きになっていたのだ。
私は、本が好きなのである。
本を読み続けるきっかけをくれた、ボルヘスの「バベルの図書館」には感謝しかない。私もいつか、そこに行けることを願いながら。