「収入も関係なしで、どんな仕事にも就けるとしたら、何をしたい?」と問われて考えた。小中学生の時は仏門に入るのが夢で、今もそういう希望はある。

現代社会で実際に出家を選択する勇気がもてないのは、結局は自分自身のせい

これまでの半生で、現代の日本でも、出家という道が一般的にとりうる進路だったらなあ、と何度思ったか知れない。
小学生の時に小倉百人一首の歌の意味を学び、平安文学に興味を持った頃から、出家に強く憧れた。仏道に帰依し、生死の意味を深く学びながら、人里離れた地に住んで草木虫魚を友とし、花鳥風月を愛で、うき世の民のために祈り、経を読む。
そのように理想的に描けるほど、当時の出家僧たちの生活がのどかなものだったわけでもないだろうが、生涯を賭して我々の存在と世界について究めること、人間を超えた世界との懸け橋にならんとすることが敬意をもって位置づけられる世だったのではないかと思う。

相当の意志があれば、現在でも僧として生きることは可能だろう。しかし、一般家庭でその進路への家族の理解を得ることは困難だと思われる。
代わりに研究者として広義の人間存在を考えること、農業で自然との対話に生きることの可能性を探ってみたが、最終的にはいつも現金の必要性に追い立てられる気がしてならない。
定額の現金収入をもって将来の保障とする、その価値観から抜け出す勇気を持てないのは、結局のところ係累のせいではなく自分自身なのだろう。

与えられた仕事や立場があり、定められた給与で口を糊する。それをもって自らの存在意義が担保されるように思うのは、私の現実でもあるが、改めて考えるととてもつまらない。
他者の特定の必要を満たすために私が生きているわけでもないし、自分1人で自らの生を繋ぐに足るものを生み出せるわけでもない。
私は私の意図を超えた作用の帰結として生まれ、一瞬たりとも私独りで生きてはいないが、それは誰しも同じである。「私」として切り出される存在に対して何らの責任を負うこともできないが、存在してしまう限りにおいて、私と私を生かす諸存在の生きやすい環境を追求することがひとまずできるだろう。

滝行で自然と一体になり、むしろ世俗の不条理にこそ向き合うべきと気づく

大学3年生の冬には、滝行をしていた。
滝の下に身体を押し込むようにして入るも、水圧に跳ね返されるかというような抵抗を受ける。冷たいのも相まって痛い感じがする。
しかし、一度、頸や肩に支障ない位置を滝に打たせることができれば、水圧は心地よいものとなる。自分の身体が滝の一部として包摂されたかのごとくである。
誰の作為でもなく流れ続ける力、宇宙的な作用の帰結として回帰するものの力とともに我があると感じる。
水音に負けぬよう読経の声を上げれば身体も温まり、冷たさにもじきに慣れる。水の唸りと声とが響き合う。私の身体は流れ続ける物質の束の間の淀みに過ぎないが、解体に抗して瞬間的に意味を成している。一面では、普遍的な理に従う物質としての私がいて、そこに回帰することは、瞬間的に生成する諸々の意味からの逃避でもある。
翻って、世俗の不条理にこそ私の究めるべきものがあるとわかっている。人はなぜ他者を傷つけるのか。どうすれば苦しむ人を救うことができるのか。徹底的に具体的な次元に立って、ともに悲しみ、恐れ、痛み、嘆き、憤り、考えなければならないのだと。