この春から大学院生になった。社会人として6年間勤めた後での入学である。
今年23歳になる見た目に、若々しく、知識も豊富な中に入り込む訳だから、隔たりに似た重いものを感じることは否定できない。居心地の良かった職場を離れたことで肌身に感じる孤独感や疎外感は、ライフスタイルを変える決断をして実行をした何よりの証拠。
それでもこの胸のざわめきをそのままに出来るのは、私を愛してくれた彼がいたから。
何事にも理由を尋ねてきた彼。21歳だった私には難しくて逃げていた
大学在学中に一人の愛すべき人に出会った。自立した大人な男性の彼は、私に世界を見せてくれた。
学歴よりも経験がモノを言う専門職の世界で生きる両親を持つ私は、大学に行くことすら特別なことで、それ以上を考えることは当然なかった。そんな私の視野を広げてくれたのが彼だった。
彼はいつも私に理由を問うた。ちょっとした日常会話でも、なぜ私がその行動をしたのか、そう発言したのかを尋ねてくるのだ。
最初はうざったくて、なんでいちいち理由づけをしなければならないのかと苛々した。でもこれこそが彼が与えてくれた最も大きな教えだった。
選択しなかったものはどうでもいい。でも選択したのであれば、そこには大なり小なり理由があるはずなのだ。言葉に変えることを面倒臭がっていては、いつまでも自分の中に存在する小さな自分と対話することができない。言葉に変える過程にこそ整理・取捨・決断が存在するから。
21歳の私には難しくて「よー分からんわ」と逃げてばかりだったが、彼は私がどんなに時間がかかっても、隣でその理由を聞く姿勢を崩さなかった。
理由を言葉に変えるべき。彼の教えの通りノートに文字を連ねてみると…
26歳の初夏、ついに彼の言葉の意味を理解する時がきた。
都内の中学校で臨時教員として働いていた際、管理職の先生から正規採用の試験を受験するように促された。それまで働いていた一般企業をその春に辞めた理由は教員の道を志すためだったので、当然のこととしてそのアドバイスを受け入れた。
だが、どうも気が進まない。
教員の仕事は好き。子どもはもっと好き。でも、この試験を受けることで私の今後30年が決まるのかと思うと、どうしても参考書を開く気になれなかった。
そこで彼の言葉を思い出した。決断した理由を言葉に変えるべきだと。
あの時彼が膝を突き合わせて聞いてくれたように、私も正面に開いたノートに拙い文字で書き連ねた。そこで気がついた。
私は大学院に行って教育を受けたいのだと。とうの昔に教育は大学までで十分だと思っていたはずなのに、ここに来てその先に視野が開けたのは、今まで無視してきた心の声を言葉に変えたから。
ふと彼の真剣な眼差しが思い出された。この過程がどれほど自分の人生に大切なのかを説いていた、あの時の真っ直ぐな瞳を。
その関係が終わったとしても、あの時に感じた愛は確かに存在しており、その愛は終わることはない。形を変えて何年経っても自分に問いかけてくるものなのかもしれない。
私自身を理解できるようになったのは、彼の愛のある教えのおかげ
その後、多くの場面で、あの彼の愛のこもった教えは私を前に進めてくれた。
管理職への教員採用試験辞退の報告、大学院の入学試験、日々の子どもたちとの授業……。
最近ではこんなシーンもあった。
既婚者の友人に「なんで結婚しないの」と聞かれた時への返答で、「どうして選択しないことに理由をつけなければならないのか分からない。『なんで結婚するの』『なんでその企業で働くの』は選択したことだから理由があるけど、選択しないことにいちいち思いを馳せるなんて切りがないでしょ」とはっきり言ってやった。
そこに繋げて「でも、『なんで独身でいるのか』には答えがあるよ。あなたが小学生の時、中学生の時と同じ理由で、それが自然な流れだからだよ」と笑顔でまとめておいた。
もしかしたら卑屈なのかもしれない。それでも断然生きやすく、そして私自身を深く理解できるようになったのは、彼の愛のある教えがあったから。
現在進行形の愛のみが自分を変えてくれる訳ではない。確かに存在したのであれば、それが過去であってもいつでもあなたを変えてくれる強さがある。
今まで私を愛してくれた全員に感謝の意を表します。あなたたちの愛はこれからも私の中で生き続けます。本当にありがとう。