私の人生の中で、出会う人たちは「出会うべきタイミングで、出会うべき人に出会った」と思っている。
その時の私が必要としていた人で、出会わなければよかったと思った人はいない。いや、そう思うことで、嫌な思い出すらも正当化しようとしているだけかもしれない。

私の周りには割と価値観が似ている人が集まっていて、類は友を呼んでいるな、と日々感じている。だから、言葉を交わさずとも一緒にいて居心地がいいと思うし、これからも一緒にいたいと願えるのである。

一方、どんな人でも価値観が完全に一致するということは不可能である。同じ言葉を伝えたり、同じ行動をしたとしても、人それぞれ感じ方は違う。そこが、人付き合いの最も難しいところだ。

たとえば、私が「仕事をしている」という事実一つとっても、頑張っていると感じて褒めてくれる人や、その行動をみて自分も頑張ろうを思ってくれる人もいるが、人は人だと他人事のように見る人もいるだろう。

別に褒めてほしくて行動をしているわけでもないし、自分のためにしていることなのだが、それでも他人事は少し寂しい。
「頑張りを見てくれている人はいる」とはよく聞く言葉ではあるが、本当にそうだろうかと疑いたくもなる瞬間もある。だが、私には前者のように頑張っていると認めてくれた人がいたから、より頑張ることが出来たと思う。

友人間での価値観の相違は、長い時間をかけてお互いに受け入れて認め合った結果だと思う。だから、自分とは違う考えを尊重したり、その人の行動を尊敬できたりするのだと思う。
出会う人の中には、絶対に理解出来ないと思う価値観を持った人もいる。でも、そこに愛情はあるかと聞かれたら、確実にないと答えるだろう。

「愛情=尊敬」。尊敬の気持ちからファンになった人たち

私が愛情を向けているのは、身近にいる人達だけではない。
小学生の頃から、10年以上好きなアイドルがいる。テレビではキラキラしたアイドルだが、高学歴で努力家な彼を、尊敬という意味でファンになった。

彼の書く詩には、強気でどこか挑発的な意味が込められ、貪欲に頂点を目指している姿があった。今では誰もが知るトップアイドルになったのだが、そこに至るまでには並々ならぬ努力があったのだと容易に想像出来る。
負けず嫌いな私も、あの頃は何事にも強気に上を必死に目指していたと思う。その志を持てたのも、愛情を持って尊敬していた彼がいたからだ。

そして、大学生の頃に出会った今では、登録者数300万人超えのゲーム実況者。実習で身体的にも精神的にも辛かったときに、携帯画面の中に現れた彼は、私に笑いを提供してくれた。
今、当時観ていた動画を観ても、何がそんなに面白かったのだろうと思うのだが、あの頃の私はどんな場所であろうと動画を観ては、クスッと笑っていた。
楽しいと思えることなんてないと思っていたときに出会って、救われたし、おかげで乗り越えることが出来たのだろうと思う。

その実況者が同い年であることを知ったのは、つい最近のことである。私が何も考えずに淡々と過ごしている頃、彼は当時、少数派だった職業に強い意志を持って歩み始めていたのだ。いつでも仕事熱心な彼を画面越しに応援して、私もまた勇気をもらうのだろう。

私の興味は、とどまる所を知らない。最近は、アイドル兼俳優の沼に落ちてしまった。
彼もまた同い年なのだが、アイドル業と俳優業の両立をしている頑張りをとても尊敬している。
どうしたらこんなにも人生が違うのだろうと思うこともあるが、同い年がこんなにも頑張っているのだから、と一歩踏み出す勇気になったりもする。

私のなかでは「愛情=尊敬」なのだが、愛情がなければ尊敬も出来ないし、尊敬から生まれる愛情もある。
これまで、それぞれのタイミングで支えてくれた人たちに愛情をもって恩返しがしたいと思う。