砂漠のような暑さが常態化する世界が、すぐやってくると錯覚した
10歳のころ、世間的に地球温暖化が騒がれて、エコな暮らしを推奨していた時があった。
使わないコンセントを抜いたり、水を出しっぱなしにしないようにしたり、食べ物は廃棄しないようにしましょうとテレビでも芸能人がCMで話していた。図書室で借りた「地球に優しい生活をしましょう」と書いてある本の中には、米の研ぎ汁で髪の毛を洗ったり、エコバッグを持ったり、むやみに買って物を捨てないようにしたりしないようにと書いていた。
当時の私は地球温暖化が進み、環境が破壊され、酸性雨が降り続き、草木が枯れ、砂漠のような暑さが常態化する世界がすぐにでもやってくると錯覚して、恐れてそれらを忠実に守っていたことがあった。
服は何度も見て、手持ちの服を考慮して着回せるかを確認する
あれからずいぶん時が流れたけれど、今でも環境に良い暮らしは推奨されていて地球温暖化は環境問題の1つとなり、社会問題の一環として私たちの間の前にある。
もう髪の毛を米の研ぎ汁では洗わないし、明日急に日本中にマラリアが飛んでくるとは思っていないけれど、エコを気にはしているつもりだ。
いつもバッグにはエコバッグを入れているし、ペットボトルを買うことはほとんどなく、いつも水筒を職場に持っていく。服も欲しいと思うものがあっても何度も見て、手持ちの服を考慮して着回せるかを確認してから買う(おかげで通販では売り切れてしまうこともあるけれど)。
必要なものを必要なだけ手に入れること。それが私のちょっとしたエコだ。
多すぎるストックはスペースを取るし、食べ物なら賞味期限が切れてしまう。無さすぎるのも考えものだ。過ぎたるは猶及ばざるが如し、というのは本当にその通りだと思う。
憧れてはいるけれど、まだ試したことはない「ミニマリスト」
今はいろんな多様性に注目されているからミニマリストもエコの1つだと言われるし、まさに究極のエコだと思う。私も憧れてはいるけれど、まだ試したことはない。
本当に自分に必要なものだけを手にして生きることは、とても難しいと思う。自分が何を大切にしている人間かで、自分にとって必要なモノは自ずと絞られる。寝る場所さえあれば良いみたいな感じなら、きっと台所も小さい部屋だろう。そんな部屋に住んでいれば友人を呼ぶことはできなさそう。究極のミニマリストは、人間関係もミニマルで合理的なのだろうか。
そもそも、「私、ミニマリストなんです」って言い切れる人ってなんだか胡散臭い気がする。
確かにミニマリストはエコに配慮しているし、自分に必要なモノを知っていて、合理的な思考をする人だと思うから尊敬している。ミニマリストになった背景も千差万別でみんなが胡散くさいとは言えない。
けれど、私は流行りに乗っているだけの人や、ミニマリストな自分に酔っている人に出会ったことがあって、それで少し抵抗してしまうのかもしれない。
必要なものだけを手元に置いていったら気が付いたらミニマリストになっていた、という感じなら好感も持てるけれど。定期的に引っ越しをしていて、気がついたらミニマリストになっていたという人なら良いかもしれない。いつも自分のモノを把握しているだけの人なら良いかもしれない。
自分にとっては違っても、誰かにとっては無駄に思えるような何かを好む人、そんな人の方が私は結局好きになることが多いアナログ憧れ人間だから。
環境に配慮はするし、なるべくそうしていることはとても大切だと思うけれど、それにガチガチに縛られないで、ちょっと遊びがあるのも大切だと思う。
「ちょっとしたエコしてます」って心の中でちょっと言えるくらいがちょうどいいや。