人間は知っている匂いを嗅ぐと、その時の記憶や感情が蘇るらしい。
ずっと捨てられない物、それは二年前に付き合っていた彼にプレゼントされた香水だ。

会う時はいつもワンプッシュ。「この匂いが世界で一番好き」と彼は笑った

「クリスマスプレゼントは何がいい?」と聞かれ、ずっと欲しいと思っていた人気ブランドの香水をリクエストした。お互いサプライズではなく、好きなものをプレゼントし合おうとなったのだ。
一人で百貨店に行き、女性だらけのお店で店員さんに「これをください」なんて言っている彼を想像したら、たまらなく愛おしく感じた。
蓋を開けて、ピンク色をした甘い香りの香水を付け、二人で「いい匂いだね」なんて微笑みあったのを覚えている。

大学生の彼と専門学校生の私、友達の紹介で知り合ったごく普通のカップルだったと思う。それなりに仲良く日々を過ごしていたし、色んなところに旅行に行ったりもした。
会う時はいつも、プレゼントしてもらった香水をワンプッシュ付けて行った。そんな私を見て、「この香水の匂いが世界で一番好き」と笑った彼の顔は今でも思い出せる。

生じるすれ違い。傷ついても、会いに行くのをやめられなかった

けれど付き合って一年も経つと、お互いの存在に慣れてしまい、付き合いたてのような雰囲気が無くなるのはそう珍しいことではない。
例外なく私達もそんな関係になっていった。
デートの度に付けていた香水も、付け忘れる事が多かったし、自分で購入した別の香水を付けても彼が何か言ってくれる事も無かった。あんなに積極的に出かけていたのに、一緒に過ごす時間は殆ど一人暮らしをする彼のアパートの部屋になっていった。
月日が経つごとにお互いに忙しくなり、会う頻度も減っていく。
少しずつすれ違って、同じ事で何度も喧嘩をして、何か言葉で表せないような空気が確実に私達の中に流れていた。
一足先に就職をした私は、多忙な業務と職場での人間関係に悩まされることになった。

あの時は週に一度、唯一彼に会える休みだけを頼りに生きていたと思う。しかし、会いに行ってもゲームや携帯を触っていて話を聞いてくれない彼に不満は溜まっていく。
話を聞いて欲しい、週に一度しか会えないのならこっちを向いて目を見て、また前みたいに二人で笑いたい。
そんな気持ちとは裏腹に、口からは棘のある言葉しか出てこない。本当はそんな事言いたくないのに。
会う度に喧嘩をして、無言で食事をする。彼の部屋に流れる楽しいはずのバラエティの音がやけに騒がしく、煩わしく聞こえていた。

それでも会いに行く事はやめなかった、というよりもやめられなかった。彼という存在が当時の私の精神安定剤だったから。今思うと、完全に依存状態だったと思う。会えば会うほど心は傷ついていたはずなのに。
きっと、もう心は私から離れているだろうな、それでも今一緒に居るのは二年半付き合っている中で生まれた情なのだろう。薄々気づいていたけれど、目をつぶって気付かないふりをしていた。

別れてからあの香水の蓋は開けていない、記憶が蘇ってしまいそうで

しばらくして、話があると切り出してきた彼は「別れて欲しい」そう言った。
その瞬間、やっぱりねと一番に思ってしまった自分がいた。わかっていたから、いつか言われてしまうのだろうと。
「嫌いになってしまう前に、離れよう」
彼は涙を流しながらそう言った。決心した時の目だった。
「わかった」
そう言うと、私達の関係は終わった。
別れた後、彼は就職し都会へ行ってしまったらしい。連絡先は消さなかったけれど、もう二度とメッセージを送る事も送られる事もないだろう。

部屋の片隅に置いてある香水。
あれから一度も付けてはいない。蓋を開けてしまえば、やっとのことで消化した気持ちが戻ってきてしまうと思うからだ。
捨ててしまおうか、それとも誰かにあげようか、何度も考えたけれど結局まだ持っている。
私はきっともう二度とあの香水を付けることはないけれど、もしどこかであの香りを嗅いだ彼が一瞬でも私と過ごした日々を思い出してくれたらいいな、なんて。
それくらいの小さな思いだけは持っていてもバチは当たらないだろう。