勉強不足を痛感したディスカッションで「わからない」が言えなかった
プライドというものは、きっと手放してしまった方が生きやすいと思う。「そんなプライド、捨てちゃいなよ」と言ってくる人もいる。
しかし、私のプライドというものは、捨てたくてもなかなか捨てられないし、捨てたつもりでもまた拾ってきてしまうものだ。
私はプライドが高い人間だと自負している。特に、勉強については人一倍のプライドがあると思う。
高校までは学年の中でも成績が良い方だったこともあり、自分よりも頭の良い人間は少ないと思っていた。そんな風に高を括っていたために、大学生になってから幾度か心が折れそうになった。
大学2年の夏、とある国際系の学生団体に参加した。
国内外の学生たちと英語で日々ディスカッションをするのだが、私はその中で勉強不足を痛感する。大学での専攻とはかけ離れたテーマだから、自分なりに勉強してきたつもりだった。所詮“つもり”に過ぎなかった。ただの自己満足だったのだ。それでも勉強不足であることを認めたくない私は、「わからない」を素直に言えなかった。
勉強不足を白状したとき、周りの反応は想像とは違い、優しかった
それまでの人生で、私は物分かりの良さと飲み込みの早さは周りから褒められることが多かったし、「わからないことがあってはいけない」「知らないことは恥ずかしいこと」だと思い込んでいた。いつ何時でも「一を尋ねれば十は答えられる」人間であろうとした。
だから私は「一を尋ねられて零すら答えられない」状況にかなり焦っていた。わからないけれど、私以外のみんながわかっていることを聞く勇気はなかった。その場しのぎでわかったふりをして、あとで隠れて大急ぎで調べていた。
そんなことを繰り返して数日、だんだんと疲労と綻びが出てきた。ディスカッション中の私の発言は徐々に減り、そのことをついにグループメンバーに咎められた。ここで私はやっと自分の勉強不足と詰めの甘さを認めて白状した。
怖かった。だが、メンバーは私が専門外のテーマに関わっていることはとっくに知っていたので想像とは正反対に優しく、その後は何かとサポートをしてくれた。
このとき不意にソクラテスの「無知の知」という言葉を思い出した。自分が知らないことを自覚していながら、知っているふりをする方が馬鹿馬鹿しくなった私は、わからないことは素直に聞いても大丈夫だと自分に言い聞かせた。つまらないプライドなんて持っているだけ無駄だと思った。
プライドの断捨離には訓練が必要。少しずつ捨てていくしかない
こんな体験をしてからというもの、私はわからないことは積極的に人に聞くようになった……となれば綺麗なハッピーエンドだ。しかし実際は違った。
あのとき捨てた、わからないことへのプライドを、私はまた拾ってきては引きずっている。もうボロボロになったタオルとか、小さい頃からそばにあるぬいぐるみと同じで、人生の大半を共に過ごしてきたものはなかなか捨てにくいものである。
大学2年の夏に捨てたはずのあのプライドをいつの間にかまた拾ってしまい、大学4年の就職活動とその後の転職活動で、このプライドに再び苦しめられることになる。
「何か質問はありますか」と聞かれるたびに、私は「こんなことも知らないのか、おかしい質問だなって思われないかな」と考えてしまい、結局質問できないまま終わるということを繰り返した。転職活動でもそうだった。
知りたいことは自分で調べる習慣と、わからないことへの恥というプライドはパッと手を離せば捨てられるものではない。私の場合、捨てるには訓練が必要で、その積み重ねで少しずつ捨てていくしかないようだ。
まだまだ両手いっぱいに抱えているプライドの断捨離を進めていくことが、私の当面の人生の目標だ。