12年間を日本で過ごし、上海へ。帰国後に待ち受けていた現実

日本の小学校に通っていたから、自分は当たり前に日本人だと思っていた。

父の仕事の都合で、小学校卒業と同時に上海に引っ越した。一度日本人学校中等部に入学したが、「どうせ海外に住むなら、国際系の学校に入りたい」という安直な考えで夏休み明けから現地校の国際部に転校した。英語と中国語で行われる授業に四苦八苦しながらもまずまずの成績を取り、日本人だけでなく台湾人や韓国人の友達もできた。

上海では「自分は日本人だ」と強く意識していた。日本人の友達は私より上海在住歴が長い人ばかりだったし、日本で12年間も生きてきたから日本人であることに変わりはないと思っていた。

引っ越しから4年半後の9月、大学受験を考えて本帰国することになった。帰国生を受け入れている東京の中高一貫校の編入試験を受け、なんとか合格した。

友達との別れは寂しかったが、本帰国後に関してはあまり心配していなかった。元の家に戻るし、日本語での授業に不安はあるが学校は入学を許可してくれたし、なんとかなるでしょうと思っていた。

甘かったなと思う。新しい高校での生活は想像以上に辛かった。

日本に溶け込めない日々。「日本人」の信念は崩れていった

みんなが着ている制服が窮屈。みんなが守っている校則を受け入れられない。みんなが乗っている満員電車に耐えられない。みんなが使っている敬語を使えない。「日本人なのにそんなこともわからないの?」「日本の小学校を卒業したんでしょ?」などと言われたこともあった。いじめはなかったが、「普通」に溶け込めない自分が余計にみじめだった。

「日本の生活しんどい。もう無理」と言ってしまえば、日本人として日本で育った両親を否定してしまいそうで相談できなかった。家では日本語で話していたが、学校のことを話すとつい英語や中国語が混ざってしまう。それは上海にいたときから変わらなかったが、日本人学校から地元の公立中学に転入した妹には、「英語を混ぜて話すの気持ち悪いんだけど」と言われた。

日本での生活の方が長いはずなのに、どうして他の日本人と同じようにできないんだろう。どうしてこんなにも違うと感じてしまうんだろう。日本で生活するにつれ、「自分は日本人」という信念がボロボロと崩れていく気がした。「自分の国」のはずなのに、学校にも家にも居場所はないのかもしれない、とひどく落ち込んだ。たかが4年半、されど4年半。思春期真っ只中の海外生活が与えた影響の大きさを痛感した。

自分が何なのかわからなかった私に先生がくれた言葉

苦しさを紛らわすように受験勉強に集中したおかげで、第一志望の早稲田大学国際教養学部に見事合格した。入学後、まずは本帰国してから全く手を付けていなかった中国語を勉強するために、上級クラスを取った。授業では教科書を読むだけでなく、作文やディスカッションの課題もあった。クラスメイトも日中ミックス、台湾人、韓国人など、みんな違うバックグラウンドを持っていた。

ある日の授業でアイデンティティーに関する話が出たとき、私は「日本の生活になじめなくて、日本人ですって言いにくい。でも中国人ではないし、自分が何なのかわからない」と話した。すると先生は「あなたはあなた。他に何か言おうとしなくていいんじゃない?」と中国語で言葉をかけてくれたのだ。

自分の中にすとんと落ちた、というのはありきたりな表現だろうか。「日本人なのに…」という苦しみから解放された気がして、自然と表情が緩んだ瞬間が忘れられない。周りの人と違っても、うまくなじめなくても、自分は自分。それでいいじゃないか。少し自信もわいてきた。

「自分って何なんだろう…」と悩む人は多いと思う。私のようにいくつかの異なる環境で過ごした人もいれば、就職活動で自己分析に悩む人、役職や肩書をプレッシャーに感じる人など。そんな人たちに、今度は私から「あなたはあなた。それでいいんだよ。」と伝えたい。少し、肩の荷が下りるはずだから。