幼い頃はピンクに囲まれていた。それでも私は黒に染まった。

私の手元にあるピンク。
それは今や、洗面所にぽんと置かれた女性用のカミソリくらいだ。
好きな色は青。纏うのは黒。大抵全身黒なので、冬場の夕方五時以降は遠くから見えなくなるらしい。そんな訳で、友人から「闇に溶ける女」という厨二病全開の別名を頂いた。
嫌がるとでも思ったのだろうか。見くびってもらっては困る。

そんな「闇に溶ける女」も、他の子と同様に幼い頃はピンクに囲まれていた。
そのほぼ全ての「ピンク」に、母にまつわる記憶がある。
幼稚園に入る前、お気に入りだったジェリービーンズ柄のビビッドピンクのスカート。これは、母の手作り。
小学校の入学式で着た、パステルピンクの襟付きフリルワンピース。もちろん、母が選んだ。
私が母が選んだものに初めて疑問を呈したのは多分、ランドセルを買ってもらった時だろう。ただし、これは赤。ピンクの横にあった、赤いランドセル。それが、両親と祖父母からの入学祝いだった。
黒はダメなのかと何気なく聞いた時、母は、困ったように笑った。
それを、今でもよく、覚えている。

この頃から闇に溶けそうな気配を見せていた私だが、前述した通り黒に染まった。勿論、服装的な意味である。決してダークサイドに堕ちたわけではない。私の大好物は裏切り、嘘、独裁などではなく、友情、努力、勝利である。
大事なので本当は二回くらい言いたいが、この辺にしておこう。

女性社員はみんなヒールで華やか。私にそれが似合うと思わなかった

会社でも、黒さは変わらない。デザインの派手さより着心地の良さを重視するので、そんなに浮くほどの雰囲気はないはずである。だが、これは、個人の見解だ。
理由ははっきりしないが、入社当初から第一印象で「あの個性的な子」と呼ばれるハメになった。
今や知らない人からもそう言われているらしく、謎に興味をもたれ、知人経由で飲み会に誘われてしまうという現象が多発したのだが、コロナ禍の今となっては懐かしい。

たしかに、女性社員はみんなヒールで、華やかだった。人気女優が表紙の女性誌を、お手本にしたような服装。正直、私はそれが自分に似合うとは思わなかった。ドクターマーチンに黒ずくめの服装の方が、しっくりくる。

「黒、カッコイイからいいじゃん。汚れないし」
この話を聞いた母は、あっけらかんとそう言った。日本語とは後方が強調される言葉という認識である。然るに帰結するところ、母にとって一番重要だったのは「汚れない」という点である。今そういう話をしていたのだろうか。解せぬ。

こうして思考を巡らせると、大抵、余計なことを思い出す。
高校時代、バイト代で白いカーディガンを買い、着て行こうとしたら、「アカン。そんなんすぐ汚すわ!」と鬼の形相で召し上げられそうになった。その時は得意の聞こえないフリをして、高校に行った。その帰りに友人らとファミレスでミートスパゲッティを食べ、母の予言は現実のものとなった。
我ながらアホすぎて、今でも鮮明に記憶している。

私がピンクを好きではないことに、母は気づいていたはず

いくつになっても白は汚すと見抜いていた母。
今の黒ずくめに、肯定的な母。
そんな母は、私がピンクを「好き」ではないことに、昔から気づいていたはずだ。
では、母はなぜ、ピンクを与えたのだろう。
ピンクの横の、赤いランドセルを与えたのだろう。
私の個性を潰してしまいたかったのだろうか。
その後増えていく数々のエピソードも踏まえて、実はそう、思ったこともある。

母とは、年を重ねるごとに、だんだんとすれ違っていった。
母は、私に常につっかかった。何をしても否定されるので、私はとうとう喋れなくなった。
だから私は、母を避けた。

その頃母は、お笑いセンスはSクラスだが、安定感はマイナス五千億くらいのブットンダ我が父に代わり、家事も家計の切り盛りも一手に引き受けていた。日の出前に一度パートに出かけ、帰宅して食事の支度、それから仕事に出かけて戻るのは夜。その繰り返し。

誰がどう見ても働き詰めだったあの頃を、精神を病まずに乗り越えた母。本当に、強い人だと思う。
いや、実際は病んでいたのかもしれない。金切り声をあげて八つ当たりをし、突然会話が成立しなくなる、なんてことが頻繁にあった。全部、今の母の様子からは信じられない過去だけど。そのくらい、追い詰められていたのだ。
そこからまた、立ち上がった。だからやっぱり、凄い人だと思う。

ランドセルの赤も襟付きフリルワンピースのピンクも、母の愛だった

母は、その時期を乗り越えることができたのは「子供のためだったから」だと言う。そして当時を振り返り、「それで子供のこと傷つけとったらアカンな」と申し訳なさそうに笑う。
あれだけ自分の精神と時間を費やして、自らの手には何も残らなかったというのに。
そんな人を、誰が責めるだろう。
許してほしいのは、こっちの方だった。
何もわかっていなかった。子供だった、私。

母はずっと、そんな私のことをよく、理解してくれていた。
私の地元は今でも赤か黒のランドセルが主流だ。そこで、女の子が黒いランドセルを背負うこと。そのリスクを、母はよく、理解していた。
まだ自我がぼんやりしている子供たちには、親の思想が大きく影響する。その当時の親世代は当然「女の子は赤」「許せてピンク」の認識だったに違いない。
思想が統一された「社会」で「個性」を主張するということは、そこからはぐれることになるかもしれないということだ。

母は、黒いランドセルが欲しいと思う私に応えてはくれなかった。
ただ、その気持ちを、否定したりはしなかった。
代わりに七歳になる前の私が、集団生活になじめるよう、母は自分のもてる全ての手を尽くしてくれた。見た目だけで爪弾きにされないように。
それでも内側からにじみ出る、私の「性格」を、本当の「個性」を見てもらえるように。

ランドセルの赤も、襟付きフリルワンピースのピンクも。
全部、母の愛だった。

大人になった今、それでも黒を選んだ私。
黒い羊は、どこへ行くのだろう。
わからないけど、きっと大丈夫。そんな風に、思えた。