侮辱、罵倒、卑劣な言葉。親から虐げられた子ども時代
関東を出て一人暮らしをする。この決断があったから、私は困っている人に対して手を差し伸べることができる、当たり前の人間となることができた。
子どもの頃、半ば教育虐待と受け止められるような家庭で育った。
テレビをつけるとコードごと抜かれ、お小遣いの範囲内でおしゃれな物を購入するとゴミだと怒鳴られる。しかるネタがなくなれば未就学児のころのエピソードを用いて侮辱し、遊びの経路まで把握される。
入りたい部活に入れば半年近く退部しろと怒鳴り散らし、普段遊びを制限する割には「みなと同じでないと恥ずかしいから」と、敢えて部活単位で行う行事には参加させる。強制された進路を拒めば罵倒され、努力のできない自堕落な人間だと卑劣な言葉が返ってくる。そんな日々を過ごした。
教育方針に疑問を述べると、「世の中にはご飯も食べさせてもらえないような子もいるのだからいいでしょ」という言い訳が返ってくるが、それは自分を守るための行いであることは百も承知だ。
子どもは家族ではなく、自由に操ることができるお人形。たまたま買ってもらったお人形が不細工だったとだだをこねることができるのは、そのぬいぐるみの気持ちを分かっていないからだ。
不平等と社会的弱者を知った私は、社会学を学ぼうと決めた
それだけ嫌われていた私であるが、一人暮らしをさせてまで進学させるのは嫌らしい。自分の手元で理系の大学に進学させ、医療従事者にさせることが両親の夢であった。
母親曰く、文系は甘えであるらしいが、そこは私が百を超える卑劣な言葉に耐えることで、どうにか文系の進路を勝ち取った。
中高生の頃、虐待を受けて育った方が、その二次障害として成人後も精神疾患を抱え、福祉サービスを受けることができずに変わった人として放置されたまま生きづらさを抱えていることを知った。
これは、今、日本社会に起こる不平等ではなかろうか。中学生にして不平等と社会的弱者の発見をした私は、社会学を学ぼうと決意した。
その時、一つの選択肢として上がったのが、札幌に行くということ。最初両親は、「あんたに一人暮らしなんてできるわけない」と、反対していたが、最終的には許可してもらった。
一人暮らしをして初めて気付いたことは、人は一人では生きていけないということだった。
40度近い熱を出したり意識をなくして倒れたり、周りに友人がいなければ命すら危うかったという経験を幾度もした。その他、課題が上手くいかない時に自分を犠牲にしてまで助けに来てくれた友人もいた。
私は支えられながら生きている。この気づきが、私の人生を大きく変えた。
周りを見ると、私だけが困難を抱えている訳ではなかった
一人では生きていけないというのは、他の友人も同様であった。
研究に行き詰まり大学に来ることができない人、社会の歯車に飲み飲まれ、生きがいを失ったまま最悪の決断をする寸前だった人、周りを見ると、決して私だけが特別困難を抱えている訳ではなかった。
立ち上がれなくなったとき、手を差しのべてくれた人がいたからある命。私も彼らを支えようと思った。周りに助けを必要としている人がいたら、真っ先に駆けつけるよう心がけるようになった。人間としての扱いを受けず、自分のことで精一杯だった子どもの頃からすると大きな進歩だ。
そして最近気付いたことは、人を助けるということは、自分自身も気持ちがいいということだ。
社会の役に立てているという意味で存在意義を見いだすことができ、また他人の幸せを享受することができる。生きることをやめかけた友人の一人も、私とのコミュニケーションを通して再び夢に向かって歩き出すことができた。人間としての幸せを願われぬまま成人した私も、ようやく正義感を持った当たり前の人間になることができた。
一人暮らしをするという決断。この決断によって人は一人では生きられないことを学んだ。この学びが、私を困っている人に手を差し伸べる一人の当たり前の人間にした。