スマホを手に入れた私は、昔の友人がどうしているのか気になった
自分の携帯電話を初めて持ったのは、高校生になった時だった。スマホがかなり普及した時期で、ガラケーからの転換が丁度終わったんじゃないかというくらいの時期だった。
私は喉から手が出るほど欲しかったその文明の利器を高々と掲げ、中学校の同級生との別れを惜しみ、高校の新しい友人と交友関係を築いていた。
SNSをとりあえずはじめて、どうでもいい日常のやり取りを眺めていた。
知っている人もいれば、学校が同じなだけで話したことのない人もいた。ごちゃごちゃした人間を全部一か所にまとめて、そこに誰もいないのにいろんな人がいるのを感じられるのが好きだった。
そこでふと、昔の友人がどうしているのか気になった。
私は小学生の時に転校を経験している。手紙のやり取りは自然に途絶え、現状がなにもわからないままで早幾年。検索すればその子たちのアカウントを見つけられるかもしれない。
思い立ってすぐに友人の名前を検索した。ネットリテラシーがしっかりしていたのか、その友人は全然違う名前でヒットした。
すぐに連絡をとった。ありがたいことに覚えてくれていて、「懐かしいね」「遊びたいね」と言葉を何往復かすることができた。
が、それもすぐに途絶える。過ごしてきた場所も違ければ、培ってきた感覚もまた違う。それは私たちの距離感を微妙なものにするには十分すぎるものだった。
ちょっといいケーキ屋の箱には、一生懸命綴られた手紙の数々
そんなことがあってなんだか無性に寂しくて、私もだんだんと自分の日常についての投稿は控えるようになっていった。自分が書くより、みんながわいわい楽しんでいるのを眺めるほうが心が落ち着いていられたからだ。昔の友人が私の知らない友人と仲良く遊んでいるワンシーンに多少の寂しさはあったが。
それでも私たちは確かに昔は友達だったのだ。私の部屋にはちょっといいケーキ屋さんの箱に、たくさんの使用済みの便せんが詰まっている。
シャーペンの使い方も知らない子供が一生懸命に綴った手紙の数々。それが増えていくことがすごく嬉しかったのに、いつしか増えないことに何も感じなくなってしまった。
友達がなかなかできなくて励ましてもらったこと。好きなTV番組の話。おすすめの音楽。面白かった漫画。笑っちゃった友達の話。本来なら直接教室で話せたであろう言葉の数々。一生懸命に描いたのがよくわかる絵。どれも笑顔でいっぱいの幸せな思い出だ。
私がどんな返事を書いたのかは覚えていない。もしかしたら彼女たちはもう捨ててしまったかもしれない。こんな風に未練たらしく思い返しているのは、私だけだったりするのかもしれない。
手紙にはその時々の自分が現れて、未来の私には書けないもの
それでも私は、この手紙たちだけは捨てられない気がしている。もう二度と会わないかもしれない彼女たちを、私は友達だと信じてやまないからだ。
街中でふと出会った瞬間。偶然名前を聞いた瞬間。あの時「さよなら」じゃなくて「またね」と別れた子供の続きがそこに宿ると確信している。根拠はないけれど、そうあれると思うのだ。
筆圧の強い手紙がかわいくて愛おしくすらある。私はどれだけネットが便利になろうとも手紙が好きなんだろう。個性の宿る文字が好きだし、その時々の自分が書く字は未来の私にはきっと書けない。そういう一期一会を感じられて、気分が和やかになれるのだ。彼女たちの手紙を見るたび、そう考える。
環境が変わり、いろんな人と関わるようになって年々思い出す回数は減っていた。友人にあてた手紙なんて年単位で書いていない。昔の友人宛のものなんてもってのほかだ。
でもこの箱は許される限り、私の部屋に置き続けたい。少なくとも今の私の一部がそこにはある。