生理的に受け付けないとしか言い表せない、自分の気持ち

「まだ本当に好きだと思える人に出会ってないだけだよ」という言葉が、ずっと呪いだった。

これまで人並みに恋愛をしてきた。苗字が欲しいと思った人だっている。
けれど、生まれてこのかた一度も親になりたいと思えないまま25歳になった。同い年の友人たちどころか、後輩までもが親になる歳になっていることに驚いてしまう。
もちろん友人たちが親になるのは心からめでたいと思うし、喜んで出産祝いを選ぶようになった。彼女たちが愛おしそうに我が子を見つめる姿を美しいとも思う。しかし、自分のこととなると話はまったく別だ。
子どもが苦手という理由に留まらず、自分のお腹が大きくなっていくことを想像するだけでわたしは気持ち悪くなってしまう。それに、これは本当に本当に申し訳ないのだが、知人のお腹が大きくなっていくのを見るだけでも、すこし目を背けたくなってしまう。
生理的に受け付けないとしか言い表しようのない自分の気持ちに対して、社会的に罪悪感を覚えたことが一体何度あったのだろうか。自分は社会不適合者なのだと何度思ったかわからない。

そんなわたしにもお付き合いをしている人がいる。なんなら最近婚約し、彼はもうすぐ恋人から夫になろうとしている。
彼と家族になれることは心から嬉しい。気の遠くなるほど多い事務手続きを要するとしても、彼と一緒に生きていきたいと思う。それでも「この人との間に子どもが欲しい」と感じたことは1秒たりともない。

悪気は一切なくても、わたしにとっては呪いになった言葉

親しい人に婚約の報告をしたとき、「そうやっていつかはお腹が大きくなったり、お母さんになったりする日も来るんだろうね〜!」と言われ、一瞬自分の顔が引きつるのが分かった。自分の描くこれからに、そんな未来はまったく無かったからである。
どうですかねえ、と返しながら、「こうやってこれから幾度となくこういうことを言われながら生きていくのだな」と思った。
彼女たちに悪気は一切ないのだ。なんなら好意的な気持ちすらあるのだろう。
でも、それがわたしにとっては呪いだった。
それは、「まだ本当に好きだと思える人に出会ってないだけだよ」という言葉と同じくらいに。

世の中には、親になりたくてもなれない方々がいることを知っている。可能性がある中で親にならないという選択をすることが、いかにある一定の他者からして憎らしいことなのかも。
けれど、それでもこの気持ちが変わる見込みはない。この世でいちばん好きだと胸を張って言える人と結婚することになっても、この気持ちには一切変わりないから。

2人で生きていく、わたしたちの人生の形。許されるだろうか

「わたしと結婚したら、あなたが父親になる未来はないけど本当にいいの?」と、先日彼に聞いた。
「もしも今後、人生のなかで、父親になりたいと思うことがあれば話してほしい」とも。婚約する前から親になるつもりは一切無いことを話していたし、それを快諾したうえで家族になることを選んでくれた人だったけれど、ふと不安になったから。
それでも彼は「積極的に父親になりたいと思ったことはないし、そういう人生もアリだと思ってるよ」とまっすぐに返してくれた。わたしのほうを、しっかりと見て。そのうえで彼は続ける。

「社会的にも身体的にも負担が大きいのは産んでくれる女性側のほうだから。選ぶ権利はあなたにあるよ。でも自分の考えとしても、今のところ父親になる気はない。それに、親になることを選んだ人たちが働きやすいように社会に貢献することもある種の子育てじゃないかな」

だから、2人で生きていこうよ。
その言葉が、すべてだった。

誰かが育休を取るなら喜んで代わりに働きたい。急な勤務変更にも喜んで応じる。だって彼らの代わりは居ないから。
だからその代わりに、そういう形の人生を選んでもいいだろうか。許されるだろうか。
本当に好きだと思える人に出会ったけれど、親になりたいとは思えなかった。それでも、2人で生きていきたいと思えた。それが呪いを解く答えのすべてだった。