出産を経験した今は、「出産」という言葉で連想するのは自身の出産の思い出だが、出産前は「出産」というと鮭を思い出すのだった。
小学生の頃、何かの授業で鮭の一生をまとめたビデオを鑑賞した。鮭は川で生まれ、海で3〜5年過ごすと生まれた川に産卵のために戻ってくる。過酷な川登りの後、産卵をして死ぬという内容だった。
「私」よりも「種」を優先するその姿に畏敬の念を抱いた。死んでしまうのに命を繋ぐために川を上り、産卵をするのだ。
ビデオの最後に映された、産卵を終えた鮭の死骸は、生命の神秘を象徴する、美しいものとして強烈に私の記憶に焼きついた。
壮絶だった出産から産後。私が野生の人間だったら、出産で死んでいる
一方、私の出産はどうだったかと言うと。
予定日を数日過ぎた頃、軽い陣痛と共に破水した。産院で丸一日産まれるのを待ったが産まれず、このままでは胎児が危ないということで緊急帝王切開で出産をした。
産後は身体が異常にだるく、食事がとれなくなった。起き上がることも辛いのだ。産院の1ヶ月検診で身体の異常を訴えて、検査をしてもらうと血糖値が異常に高く、すぐさま近くの総合病院へ緊急搬送された。
検査の結果、1型糖尿病と診断され、新生児を母に預けてそのまま2週間入院となった。
陣痛も、帝王切開後の痛み、産褥期の様々な痛み、血糖値が高いことによる不調も大変なものだったが、ここでは割愛させていただく。今言いたいことは、私が野生の人間だったら、出産で死んでいるということである。
1型糖尿病を発症したのは、出産後に戻る自己免疫が、自分の膵臓を攻撃してしまったためだそうだ。そして一度壊れてしまったこの細胞は回復しないため、私は生涯大変なインスリン治療をすることになる。
インスリンを投薬できなくなれば、私は1週間程度で死ぬだろう。そもそも帝王切開がなければ無事に出産ができていたかもわからない。出産が命懸けなのは人ごと(鮭ごと)ではなかった。
命を賭して産卵した鮭の死骸と同様に、私の身体も美しい
さて、こうして私の身体は出産により随分変わってしまった。
膵臓が故障し、下腹部には帝王切開の傷跡が赤黒く残り、一度伸び切ったお腹周りの皮膚はしわしわだ。乳輪は黒ずんで大きくなり、妊娠中に蓄えた皮下脂肪はまだ一部しぶとく残っている。機能面でも美容面でもひどい有様である。
そんな身体を私は美しいと思う。命を繋ぐという大仕事をやり遂げた、この身体を。
かけがえのない娘を産み落とした。命を賭して産卵した鮭の死骸と同様に、私の身体も美しい。
大変な思いをしたが、娘を産んだことに後悔は全くない。娘は私の全てをかけてもいい宝物だ。そんな宝物があって私は幸せである。
それに人間には医療があるために、こうして今生きられている。とても有難いことである。
それでも、「種」ではなく「私」を、私の人生を顧みた時に、ずっと続く治療にたまらなくなる時がある。
「悲しいなあ」こんな身体になってしまって。
気の抜けた、昼下がりのリビングで、ぽろっと呟いてしまう。
音に反応して、7ヶ月になった娘が、あどけない顔でこちらを見た。私の膵臓が壊れて7ヶ月経った。