運転席にいる彼、助手席に座るわたし。
その日はバレンタインで、わたしと彼の関係はまだ恋人未満であった。
「運命」なんて信じていなかったが、ただの他人とは思えなかった
冬季は雪がふりつもり家に帰るのも大変なその土地で、大学生だったわたしはバイト終わりに車で駅まで送ってくれるようになった、同じバイト先の彼に特別な親しみを抱いていた。
どちらかというと真面目で慎重なわたしに対して、どちらかというと不真面目でちょっと悪そうで、よく笑い、いろいろな表情を見せる彼。なんというか、「人の心に土足で入る」という例えがあるが、いい意味でそんなふうにわたしの心にひょこっと入ってきてしまうようなところがあった。そしてわたしはそれが嫌じゃなかった。
2つ年上の彼は車を持っていたので、冬の天気も手伝って、そんなこんなでバイトのシフトが被った日は、帰りは駅まで送ってもらう関係となったのだ。
彼の仕草や表情は、知り合って間もないのにどこか懐かしく、「この人を知っている」という感覚によく陥った。
「運命」なんて信じていなかったが、わたしは彼をただの他人とは思えなかった。
先に声をかけてきたのは彼で、わたしたちは徐々に仲良くなっていった。彼の眼差しからは、特別な想いを感じ取ることができた。
まるで優等生と不良のような位置関係の私たちは、どうしてか馬が合ってしまった。お互いは惹かれていることは明白であった。
「恋人未満」の彼とのバレンタイン。彼が何かを放り投げた
そうして迎えた、まだ「恋人未満」のわたしたちのバレンタイン。
いつもと同じように車は駅に着き、それでもまだ少しわたしたちは話し込んでいた。
わたしは意を決して、出る時にコンビニで買ったチョコレートを取りだし、「これ、一緒に食べようか」と笑って言った。奥手なわたしにはそれくらいが限界だったのだ。
彼は何も言わず優しくほほえみ、私たちはごく自然にチョコレートを分け合い食べた。
そして板チョコレート一枚分の時間は終わり、いよいよわたしは駅に向かおうと車のドアを開けようとした、その時だった。
彼はダッシュボードの上にポン、と何かを放り投げた。
わたしは驚きと「?」で一瞬固まってしまう。
それは、一冊の文庫本だった。
さっき途中で寄った本屋で、レジに立つ彼の後ろ姿を思い出す。
これは「逆バレンタイン」なのか。
そして、この出来事はわたしの人生を変えた。
彼がポンと本を放った瞬間、わたしの世界にポンと本は入ってきたようだった。
本や活字に疎かったわたしは、この瞬間、「本」に出会ったのだった。
本を読むようになったきっかけの本を、私に贈ってくれた
やんちゃなくせになぜか本の虫の彼は、その世界の素晴らしさをわたしにも知って欲しかったと言う。バレンタインの日に好きな女の子に、スイーツでもなくアクセサリーでもなく「本」を贈るなんて、風変わりかもしれない。
彼は本を読むようになった一番最初のきっかけの本を、わたしに贈ってくれた。
読書感想文や小論文がとことん苦手で、文字を記号としか思えなかったわたしは、それでも好きな人がくれた本になんとかかじりついた。
「言葉」は徐々にわたしに訪れ始める。
小説やエッセイの中では、学校で習うような論理立てた固い文章ではなく、何ものにもとらわれない柔らかな、創造の世界をどこまでも伸びてゆくような、新しい「言葉」に出会えた。
そこは、「自由」だった。
記号だと思っていた「文字」は、「文章」となり、きめ細やかに編み込まれ、わたしの心を打った。今までに感じたことのないような充足感が、わたしを包み込んだ。
こんな世界があったのか、なんてすごいことなんだ。
その後、恋人同士の関係になったわたしたちは「本」以外にも様々なものを一緒に見て、感じて、過ごしてきた。
彼と過ごした日々には嬉しいことも悲しいことも沢山あったが、わたしの人生にとって決して欠かすことのできない、特別な期間であった。
彼がくれた「本」という宝石は、心の中で今も煌めき続けている
あれから7年が経った今、わたしは東京にいて、彼は隣にいない。
鮮やかな記憶はすっかり過去の思い出となり、あんなに好きだった彼の顔も曖昧にしか思い出せない。あれほど夢中になった恋ではあったが、今思い返してみると、若気の至りのようにも思えて、昔の自分が可愛らしく思える。
しかし、わたしはただひとつ変わることなく、「本」を読み続けている。
そして言葉が与えてくれるその不思議なパワーに今でも魅せられ続けている。
彼がわたしの「本」を通じて教えてくれたくれたことだけは、まるで硬く輝く宝石のように、わたしの心の中で今も煌めき続けている。
そして「この光は一生無くならない」と思える。
あの時彼がわたしにあの一冊を贈ってくれた気持ちのことを思うと、今でも胸が締め付けられる。
あの時彼がくれたものは「本」という姿をした、愛だったのかもしれない。
「こんなにも大切な気持ちを教えてくれてありがとう」
もうこの先会えるかどうかもわからないが、もしも会えた時には、それだけは彼に伝えたい。