物心ついた時から、ハートの形が好きだった。
解答用紙に無機質に描かれた〇や×と違う、何も決めつけず、ただかわいいだけの、どこか浮世離れした記号。洋服も、髪留めも、筆記用具も、ハートがついているものは、何でも親にねだった。私はハートまみれの幼少期を過ごした。
あれだけ好きだったハートが示す意味を知り、避けるようになった
ハートが、ある特定の感情を示す記号だと気づいたのは、小学3年生の冬だった。
2月14日、バレンタイン。クラスのリーダーの女の子が、クラスで一番足の速い男の子に、ハートのチョコレートをあげた。
市販の板チョコレートを溶かして、ハート型のアルミカップに入れて、冷やして、アラザンを載せただけの、今思い返すといたって簡素なものだったと思うが、私にはとても大人なお菓子に思えた。
二人はしばらく、一緒に登下校していた。手をつないだ日は、学校中の噂になった。
ハートから始まった二人の青春。今まで隣にいたハートが、急に遠い存在に思えた。ハートはラブラブな男の子と女の子が使う、トクベツなマークなんだ。
中学生になってからは、ますますハートと距離ができた。
男勝りな性格で、どちらかというと男顔の自分は、ハートが似合う女の子じゃないと思った。
あれだけ好きだったハートを神経質に避けるようになった。身に着けるものは、ハートではなく、星型のものを率先して選んだ。ハートが似合う女の子たちはみんな、恋バナで盛り上がっていた。好きな男の子の話をする彼女たちは、別世界の住人のように思えて、いつも私は馴染めなかった。
逃げるように、放課後になると一人クラスから一番離れた棟の美術室に通うようになった。
先生と話すのが楽しくて、絵を見せるのを口実に美術室に通う
コーヒーの香りがする放課後の美術室にはいつも、先生がいた。
染めたことのない黒髪のショートカットヘアが、良く似合う人だった。化粧っ気がなかったけれど、同年代の厚化粧の先生の何倍も、きめの細かい綺麗な肌だった。今になって分かる、手入れの大変なリネンのシャツを毎日皺一つなく着こなしていた。
西日が差し込む美術室で、自分がそこにいる理由をつくるためだけに描いた落書きを、先生はいつもコーヒーを飲みながら、丁寧にじっくり鑑賞してくれた。
あなたの絵の独特な色使いが好き。もっと描いて見せてよ。
いつしか先生に褒められるのが嬉しくて、話すのが楽しくて、絵を見せるのを口実に美術室に通うようになった。居残りの生徒がいる日は少し残念だったし、先生と私だけの日は、なんだか緊張した。
笑うとハスキーな声が一段高くなる癖も、絵の話をするときだけちょっと早口になることも、垂れ目を縁取るまつげがまっすぐでとっても長いことも、私だけが知っている秘密。先生のことを知るに比例して、絵もどんどん上手になった。
描いた絵は、先生にあげた。成績表は、いつも美術だけ最高評価だった。
美術室に通い始めてから、初めての2月。中学3年生、卒業目前の、2月。
クラスの可愛い女の子たちには彼氏がいて、私にはいなかった。ハート型のチョコレートを贈りたいと思う相手も、いなかった。
たしかその年はバレンタインが日曜日だったから、クラスの女の子たちは、決戦の日を金曜日にするか、月曜日にするか、ずっと議論していた。
私はクラスの女子たちの恋バナにうんざりする、というような愚痴をこぼしながら、いつも通り描いた絵を先生に渡して、完全下校のチャイムが鳴る前に帰った。
バレンタイン直前、先生に書いた手紙にハートを数年ぶりに描いた
先生。お元気ですか。私があの日に渡した絵を覚えていますか。
バレンタインデーまで、あと一週間だったと思います。いつもと同じ、他愛もない平凡な風景画の余白に、卒業前だからと無理にこじつけて、手紙を書きましたよね。
実は、鉛筆で下書きしたとき、数年ぶりにハートを描いたんです。小さいけど、左右対称の綺麗なハート。
でも、ペンで清書するとき、急に恥ずかしくなって、なんだか自分が別人みたいに思えて、無性に怖くなってしまって。
迷って、迷って、結局消しました。消しゴムが摩擦で熱くなるくらい、一生懸命消したけど、ハートの筆跡が残ってしまって。その後を塗りつぶすためにやけに必死になって、上から沢山ビックリマークを書きました。
先生、あの日からもう5年以上経ちますが、私は相も変わらず恋愛が苦手です。将来愛する人ができるのか、結婚するのか、見当がつきません。ハートは今でも毛嫌いしてしまうし、ハートのチョコを作ったこともないんです。
でも、毎年バレンタインデーが近づくと、あの冬、夕暮れの美術室で消した小さなハートマークを思い出します。